経済学でいう富の「微分」とは何なのか

「違い」を検出することが認識作用の中核なら、「違い」の大きさはそれほど重要ではないのかもしれない。もちろん、摂取カロリーのある期間の平均など、社会の運命を左右する大事な積分量もあるけど、人間の行動とそういった「量」が相関しているとすれば、それは大勢が「違い」、もっと具体的には「飢え」「欠乏」を検出して判断を変更した「数」が結果的に全体の「量」の変化に伴うからであって、ミクロレベルの説明は「量」に依ってはいけないのかもしれない。

もちろんミクロの動きが単純にマクロの動きに比例する場合だってある。「割高」を売って(買わず)「割安」を買う(売らない)、という regular な判断と行動がなされている場合だ。これは「なぜ平時には市場が機能するか」という説明であって、「なぜ時々市場を止め、配給制度の類を施行するのか」という説明にはならない。

「違い」を検出する神経系のセッティングは人によって違う。それは19世紀中に、効用は基数か序数か?という功利主義の問題として認識されていた。これは社会科学に順序理論が導入され応用される原因であり、その流れはひとまずアローの不可能性定理によって終結することになる。だが(ミクロの)効用が基数(富の連続関数)でないとしたら、いわゆる「限界革命」後の経済学が富の「微分」と称していたもの(限界効用)は定義できるわけがない、これはいったい何なのだろうか?

自分の考えはまだまとまっていない。だが、以下の分析はいずれ自分に答えを示してくれると思っている。
ブール代数は、質的判断を、「全く比較可能でないものの比較」から、「ここが違う」の冪に還元する道具である。これはブール代数の位数2が他にない特別なものだからで、論理空間のコンパクト性はこれに由来する。

統計でいう「数量化」は、連結であることが保証できないn項目のカテゴリカル変数を、必ず連結であるn-1次元の2値ダミー変数の空間に分解することで、それぞれのダミー変数による「偏微分」を可能にする。

同じことはミクロ経済の部分均衡モデルにおいて価格や数量を連続量として捉えるのではなく、対立するプレーヤーそれぞれにとって「望ましい状態」(プレイヤーPの効用u_P=1)「望ましくない状態」(u_P=0)に二分するゲーム理論の payoff matrix や、マクロ経済モデルでマクロ外生変数の変化の「前」(時点t=0)と「後」(t=1)を比較する比較静学についてもいえる。(経済学的な応用を含めた)ゲーム理論創始者としてのノイマンに比べると比較静学を明確に定式化したヒックスは経済学の外では無名だが、経済から視野を広げ、統計の一般論の中に位置づけるなら、ノイマンの仕事は「クロスセクション分析のブール化」、ヒックスの仕事は「時系列分析のブール化」とみることもできる。

なお、ワルラスの『純粋経済学要論』での業績は現代では「ミクロ経済学」とみなされているが、かれの時代には「ミクロ」と「マクロ」の区別はなかったこと、またワルラスは後世に残る物々交換ベースの一般均衡モデルだけではなく、貨幣理論へのアプローチも行っていることを注記したい。ワルラスがもし生きていたら、おそらく現代におけるかれの業績への評価に反論するだろう。