教科書の顔に落書きをして

※具体的な数学の議論にするにはまだ荒すぎますが、大体全体像が見えたのでメモ

テクストのコノテーションを読む、というといかめしいのだが、たとえば小学生は音楽の教科書の鬼気迫る作曲家たちの肖像に落書きをして、そのいかめしさを別の文脈に移してしまう(批評の初歩だ)

さて数学が苦手な子たちは数学の文章を別の文脈に移して意味の通らない文章を書いて遊んでいた

隠語のように数学/思想用語を混ぜ書きするのは、桑田圭祐の作る猥歌のようなもので、公共の電波に卑語を載せるように、数学者に怒られるぎりぎりのところで遊ぶのはもしかするとちょっと楽しかったのかもしれない

だが、この遊びももう終りだろう

というのは、文章、あるいは記号一般の遊びの数学的原理が明らかになってしまっているからだ

数学が自然言語でできるあらゆることを必要としているから一般的な写像の理論もできその自然な構造の帰納についての理論もできる

作用素を右からかけていく、という操作は作用素のなす半群を定めているし、圏を定義する、というのは、関手という状態遷移で集合という状態を繋いで状態機械を定義すること

メタの階層の段数が連続無限個の場合には、たしかにメタレベルとオブジェクトレベルの区別はつけられないことがある

それだけの話だ

意味、というのは代数でいう付値やその一般化にあたる。経済でいうところの「効用」もそういう付値の一例

測度と付値は基本的には同じものといえる

経済の文脈ではこれは系のシナジーを値踏みするということ
物理の文脈ではこれは質量や確率密度を決定すること

二値での付値を「論理」という

写像を全域的にしようとすると、潰した分(局所だけ見ていても出てこない)は特異点として現れることになる

特異点が正則領域へ移り、正則領域が特異点に移るというのは異なる言語、異なる存在論、異なる世界観の間の翻訳ということ

言葉遊びは特定の言語が定める位相を調べることで、翻訳はその言葉遊びに普遍性が無いことを示すこと