数学者、角谷静夫の生涯(メモ)

2017/10/12 終戦直前の全国紙上数学談話会は1945年2月に発行されたきりなので、1945年8月に豊郷国民学校で角谷先生がガリ版を切って談話会を編集していたとは推定できません。本文を見ると「戦後すぐの」と自分で書いているのでどうも頭がボケつつあるようです。
2016/3/11 ノイマンの講義録『不変測度』の成立経緯についての記述も、それを支える論拠がなかったことが判明したため、削りました。
2014/12/1 史実のチェックで、『ゲームの理論と経済行動』の成立経緯についての記述は信頼できないことが明らかになりました。とりあえず当該部分は削ります。他にも事実関係の重大な誤りがあるかもしれません。
2014/11/30 大幅に改稿しました。参考文献については追記予定です。

大阪の弁護士、角谷格次郎の次男として生まれた角谷静夫は家業を継ぐべく高校(予科)は神戸の甲南高校の文科に進んだが、文系学生の入学を認めていた東北帝国大学の数学科に入学した。大阪帝国大学に赴任して国際的にも知られるようになった彼を1940年にヘルマン・ワイルが米国ニュージャージー州プリンストン高等研究所(IAS)に呼んだのが運命の転機だった。数学専門家以外にとって、角谷の名はこのIAS時代の仕事である「不動点定理」で名高いが、それとは別の不動点定理を示した仕事があり、これは渡米前に日本で書いたもので、帝国学士院紀要に載っている。おそらくIAS招聘の根拠となった仕事のひとつである。

当時IASにいて、作用素環論の大作論文執筆を続けており自信喪失中だったジョン・フォン=ノイマンは妻を一回取り替えて、スタニスラフ・ウラムやオスカー・モルゲンシュテルンに愚痴や猥談でストレスを吐き出しつつ作用素論の経済学への応用であるゲーム理論を考えたり、流体力学の応用である爆弾研究をやりたいとカルマン渦で有名な同郷人セオドア・フォン=カルマン(カルマンフィルターの人とは別人)のところに履歴書を送りつけるなどいろいろ気晴らしを見つけては現実逃避していたが、優秀な学生が世界中から集まってきていたのでゼミもやっていた。彼が原爆という恰好のおもちゃを与えられるのはもう少し先のことである。
ゼミでは宇宙の全エネルギーはどう客観的に定義するのか?という問題を不変測度という概念を使って考えていた。これはハンガリーの数学者でゲッチンゲンに留学したフォン=ノイマンの先輩にあたるアルフレッド・ハールの考えを発展させたものであった。角谷との討議から得られた結果が講義となり、その内容は近年アメリカ数学会から『不変測度』というタイトルの本として出版された。

当時の角谷の複雑な立場を象徴する出来事が1941年に起きている。角谷とポール・エルデシュとアーサー・ストーン(論理と位相の関係で有名なマーシャル・ストーンとは別人)は、ロングアイランドをハイキング中に、マッカイにあった米国海軍の電波塔のまわりをうろついたのでFBIに一時拘束され、これはニューヨークの新聞に報じられた。角谷はジャップだったのでスパイと疑われたのである。
敵性外国人だった角谷は亡命でもしない限り米国でのポストも望めず、IASにもそう長くは滞在できない状況にあった。招聘したIAS側としては亡命を促す意向もあったのかもしれない。実際、IASの主要メンバーの多くはアルバート・アインシュタイン、クルト・ゲーデルを筆頭に欧州の全体主義国からの亡命者であり、フォン=ノイマンもまた亡命者であった。

カール・メンガー(経済学者ではなくて、次元論で有名な息子の方)のコロキアムで発表した成長モデルの論文(英訳はモルゲンシュテルンがやった)で使った不動点定理の拡張を考えるようにフォン=ノイマンから示唆されて角谷とアレクサンダー・ドニパン・ウォレスが作ったのが集合に作用する関数の不動点定理だった。

母親から日本に戻ってくるように言われたりしてついに滞在にも限界が来た。結局角谷は1942年6月18日にニューヨークを出航した交換船、グリップスホルム号で日本に帰ってくる。角谷が携えていたフォン=ノイマンとモルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』の草稿も、それ以外も、この際に米国の官憲に没収されたようだ。
ハーバードで哲学を学び、戦後は左派リベラルの評論家として活躍する鶴見俊輔が同じ船に乗っていた。彼はたちまち角谷の知遇を得たようだ。このとき角谷はゲーデルの完全性定理と不完全性定理について語っていたという。角谷は他の船内で知り合った学生らと共に、鶴見の誕生日(6月25日)を記念して瓶にメッセージを入れて海に放った。各々どこに漂着しても読めるようにと工夫したのだが、角谷が瓶に入れて流したのは自らの証明した定理だった。もし火星人がいたなら、人間の言語は通じないが、幾何で図示すれば通じるだろう、と角谷は語った。角谷の失われた定理の内容は伝わっていない。
1943年、大日本帝国陸軍の暗号分析家として頭角をあらわした釜賀一夫は、暗号分析のために日本の数学者の動員に着手した。1943年7月以降、高木貞治を窓口として数学者との会合が数回もたれ、1944年4月に陸軍数学研究会が発足した。会に名を連ね、あるいは協力した数学者は日本の代数学、数論の最精鋭であった。
大阪帝国大学の数学教室に復帰していた角谷もまた、このプロジェクトに無関係ではなかったと考えられる。東北帝国大学の泉新一は当時ガレット・バーコフの束論の教科書を学生と読んでいるが、これは角谷が米国で学んでいたはずの文献であり、何らかの示唆があっておかしくない。
戦況は悪化し、1944年11月以降、大阪帝国大学の数学教室も滋賀の彦根疎開した。11月には専門学校の校舎、そして敗戦間際の1945年8月には豊郷国民学校へ。建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作であり、アニメの「けいおん!」の桜ヶ丘高校のモデルとしても有名な、豊郷小学校の図書館で戦後すぐの「全国紙上数学談話会」は編纂されたのである。

戦争が終わって1948年、占領された日本から角谷静夫、次いで湯川秀樹がIASに招聘された。湯川は岡潔の第七論文を携えていた。二人とも当時は接収されて米軍の航空基地となっていた羽田空港から渡米した。岡の論文草稿は湯川から先に米国入りしていた角谷、アンドレ・ヴェイユを経て、パリのアンリ・カルタンに郵送された。カルタンによる校閲を経て公表は2年後の1950年であった。
角谷は戦後、日本に戻る折に、岡を訪ねて議論したという。数学者の情緒、個人的創意の役割を重視し、一般化は数学の理解にとって弊害があると考える岡は、角谷の仕事を「人のやった仕事の一般化の論文を書いてはいけない」と批判したという。岡の仕事はカルタンによって「層の理論」の言葉で再定式化されることになるが、角谷の戦後のエルゴード理論の研究から現れた「摩天楼」の概念も、現在では層の理論で定式化されているようであり、岡が具体的に考えた内容と、角谷が抽象的に考えた内容は無関係ではなかったのであろう。

角谷はIASに招聘された翌年、1949年には、コネチカット州ニューヘイブンのイェール大学に移籍することとなった。
カリフォルニア州バークレー日系人、内田嵩と内田郁子の夫妻は、ルーズヴェルト大統領の命じた日系人強制収容によって、ユタ州のトパーズ日系人収容所に二人の娘とともに拘束されていた。戦後、解放されてバークレーに戻り、しばらくは家族で教会の空き部屋に仮住まいしていたが、ちょうどこの頃新居に移った。1950年の内田家のサインブックに角谷静夫のニューヘイブンからの訪問の痕跡が残っている。
内田家の長女、内田恵子は1952年に角谷と結婚してバークレーからニューヘイブンへ移った。1955年には二人の間に娘、美智子が生まれている。
イェールでの角谷は勤勉に弟子を育てつつ自分の研究を続けた。米国への頭脳流出第一号たる彼には日本からの客もまた絶えなかったようで、いろいろな分野の研究者が角谷の思い出を語っている。
1958年のアメリカ数学会紀要のフォン=ノイマン追悼号には各人による追悼記事に並んで(集合論線形代数の教科書、その他教科書多数で有名な)ポール・ハルモスと角谷静夫による作用素の因子分解の定理が掲載された。二人ともフォン=ノイマンのゼミ参加者であり、実質的には弟子といえる立場であって、これは彼らなりのオマージュであった(ハルモスは普通の追悼記事も書いている)。
戦後の角谷はろくに故国に帰っていない(ある記録は1969年、70年の二度だけと語る)。帰国の折に岡潔を訪ねたのは先述の通り。旅費が高かったことは確かだろう。1982年、定年退職時に、学士院賞と恩賜賞が授与されたのだが、彼は皇居への参内よりも、同僚による引退を祝う集まりを優先して帰国しなかった。
2004年、イェール大学は引退した角谷教授の死を学内誌で伝えた。学内誌の記事では角谷は数学者かつ発明家ということになっていて、発明は「摩天楼」というものであったとされていた。これは数学的創意ではあるけれど、工学的な発明ではない。数学的実在の階層構造(こういうものについては、代数学解析学の知見が長年にわたって積み上げられている)についての抽象的な理論であり、角谷が関数解析、エルゴード理論の研究を通して到達した成果であった。おそらく数学的素養のない若い学生であろう学内誌の記者にはそれがどういうものかを概略的に理解することは難しかったのだろう。
恵子夫人は2008年に死去した。角谷夫妻は、イェールの校地に隣接する墓地に揃って埋葬されているそうである。
角谷の娘、ミチコ・カクタニは1976年にイェールの英文科を卒業した。彼女はニューヨークタイムズの専属の文芸評論家として名高く、1998年にはピューリッツァー賞を受賞している。



以下まだ本文に取り込めない雑記。

角谷が経済学者の集まったところで「角谷の不動点定理」についてきかれて、「それは何ですか?」と言った、という誤解が一部にある。【追記:誤解じゃないかもしれません、Binmoreにこの逸話はあるそうです、裏が取れたらまた追記します】これは伊藤清が「伊藤のレンマって何ですか?」と言ったという話の誤解。【追記:こっちも裏を取らないと】角谷と伊藤兄弟は研究分野が近くいずれも確率論の関連分野であったし、「全国紙上数学談話会」の編集を通じて接点はあっただろうが。

追記:角谷の父、角谷格次郎は1865年に泉州の農家の五男坊として出生。1882年頃大阪法学舎に入学、1886年には大阪法学舎の改組で関西法律学校に所属し法律を学ぶ。東京で弁護士をしていたが1893年大阪市内にオフィスを構える。1903年から1935年の大阪地方裁判所所属弁護士会(現在の大阪弁護士会)の会員名簿に記載がある。静夫の出生は1911年だから格次郎46歳の時の子。格次郎の妻は作州の福島家から出たという情報があるが名は不明、裏は取れていないし、これが静夫の母かどうかもわからない。なお静夫の本籍地は泉州の角谷本家と思われる。
甲南高校は角谷の在校時には芦屋ではなく岡本にあった。
Birkhaeuserから出ている角谷選集には戦前の「全国紙上数学談話会」「帝国学士院紀要」に日本語で発表した仕事は入っていない。ただし前者はすべて大阪大学アーカイブで簡単に見られる。プリンストン到着直後に角谷が吉田耕作に送った私信が掲載されており当時の角谷の人となりをよく伝えている。
交換船内での角谷については鶴見和子、俊輔の姉弟の証言が詳しい。
『日本欧米間、戦時下の旅』(未見)に角谷の渡米、帰還、再渡米の記述あり、1948年9月18日、パンナム?要確認
阪大理学部数学科は1931年以降滋賀への疎開まで、豊中や吹田ではなく中之島に所在した筈。大阪市内への空爆が開始されたのは1945年1月3日。
戦中の角谷の仕事、それに特に再渡米後のエルデシュとの一連の共同研究の文脈における位置付けなどは目下調査中。母校甲南高校の校長だった天野貞祐が1944年?に角谷を自宅に招いたという情報があるが、裏は取れていない。恩賜賞/日本学士院賞はイェールを退職した1982年に受賞しており、辞退はしていない。ハルモスによるとノイマン=マレーの作用素環論第一論文を読んでその独特の記号法を「玉葱」と言った人がいるとのことだがその時期は不詳(角谷の渡米前か?)。イェールで角谷は伊藤雄二を含む三十数名の大学院生の指導教官になっているが、彼らの証言も大半は未見。ご令嬢は職業的文筆家であり正統な評伝の執筆が待たれる。

追記:角谷の夫人は日系二世の内田恵子(けいこ、周囲は彼女を「けい」と呼んだ)、妹の内田淑子(よしこ、「よし」)は児童文学者でその自伝は邦訳があり、1992年に淑子が死んだとき姉の恵子はニューヘイブンで存命であった(なおこの死亡記事はNYTの無署名記事で、姪である角谷美智子の関与の可能性を否定できない)。内田姉妹は仲がよく書簡はUCBのバンクロフトライブラリーが保管している。彼女たちの両親は同志社の出身で、同志社女子大学には淑子の遺贈による内田郁子・淑子奨学金という制度がある。角谷夫妻はニューヨークで知り合ったとされるがその詳細は未見、なお内田嵩はイェールの卒業生であり、また内田淑子の自伝邦訳の帯には鶴見俊輔からの書簡が抜粋されているから、いくつかの縁がここで交差しているとだけはいえる

追記:絵になるシーンが欲しいなら浅間丸の入港時の状況(簡単に手に入るだろう)、羽田陸軍航空基地から湯川、角谷が出国した際の詳しい状況を(角谷の戦前の出国時の状況も)確認する必要がある、特に輸送機に搭乗したならその機種、可能ならフライトプランそのもの(米国本土との定期便が運行されていただろうから軍人軍属との便乗であったと思われ、おそらく両名は別便での出国)。湯川のメモワールは日経「私の履歴書」で公表されたものがあるはず。FBIによる拘束の経緯は当該新聞記事に詳細が出ているが送信設備の位置を可能なら確定したい。IASとPU数学科の雑居状態は1939年にフラッドホールが竣工してから解消傾向にあったが、1939年夏の時点ではJvNがGoedelに送った書簡に返信先をファインホールと書いている

追記:角谷の通った甲南高校は、阪神間プチブルジョアの師弟が良く行く学校であった(戦後になるが、中井久夫が甲南高校出身)。角谷が瓶に入れて流したのが初等幾何の定理なのか、それとも彼の専門分野に属する仕事なのかは明確ではない

追記:不変測度の概念は、ハンガリーからゲッチンゲンのヒルベルト学派に留学した(だからフォン=ノイマンの兄弟子ともいえる)アルフレッド・ハールの、直交関数系についての論文から発展している。この直交関数系はハール・ウェーブレットと呼ばれていて、冪級数や三角級数とは違った、関数の級数展開を与える。ウェーブレット解析には現在、信号処理全般で、特に不可逆圧縮や多重解像度解析などの用途があるが、ハール測度の概念を提唱したフォン=ノイマンの念頭にはおそらく宇宙論への応用が考えられていた。「観点の取り方によって同じ現実が違って見える」という現象に対し、ウェーブレット解析は他の解析手法にはない洞察を与える。重力によって部分的な情報空間自体が伸縮する、という考え方を、ウェーブレットはうまく反映する。なお同じくハンガリー出身のデニス・ガボールガボール・デーネシュ)のホログラフィに関する業績はハールの仕事と密接に結びついている。近年の高エネルギー物理学のAdS/CFT対応に関連して「ホログラム」がメタファーとして頻用されるのにはこういった背景がある

追記:1940年前後におけるハール測度の検討は数論、代数学の観点からヴェイユも取り組んでおり、この成果は邦訳の文庫本が出ている。位相と測度の関係を問うこの研究課題と、ノイマン=モルゲンシュテルンの効用の序数性、基数性をめぐる研究(最終的にはTGEB 2/eの期待効用理論に結実する)には通底するものがあり、これらの研究が同時期に行われていたのは偶然ではない。