経済学における重力(後編I:経済学におけるヒルベルト空間と量子論)

前説

前回の記事「経済学における重力(前編)」ではディアドラ・マクロスキー『ノーベル賞経済学者の大罪』の書評という形で、戦後オランダの国際経済学と方法論についての経済学説史上の文脈についてのリマークを書いてみました。*1
その記事のタイトルで「(前編)」と銘打った理由ですが、筆者としては、経済学説史上のあまり明確にされていない要因として、いわば「実物的需要の非経済的な理論」*2、とでもいうべきものが一般均衡理論の深層に伏流しており、これがファイナンス理論との関係*3国際経済学に現れる非決定性*4マクロ経済学における異質性の扱い*5行動経済学におけるプロスペクト理論*6 *7などの形で経済学に影響を与えている、ということについての説明を書こうという計画を持っていて、これを後編として公開するつもりでした。
後編の論旨が定まらず、ぐずぐずしている間に、山形浩生氏の卓抜な論説「お金についての浅はかな話」が現れ、これを読んで筆者は衝撃を受けました。当該論説のテーマは筆者自身のテーマと根本的な部分で重なっており、また筆者が表現できずにいた本質的論点を氏は明確に言い当てておられ、この論説の後では筆者が何を書くのもほとんど意味がないように思われました。
ただ、山形氏と筆者とではアプローチも問題意識もまったく違うし、志向する方向もほとんど反対ですし*8、筆者の歴史的、横断的アプローチは山形論説に興味を持った人のごく一部にはεの程度の補完的な効用があるかもしれない*9と思い直し、なにより筆者自身も私見をまとめる必要を感じているので、今までに筆者がこの方向で調べてきたことを(幾分かは当初の漠然とした計画に沿って、しかし全体的には山形論説の見方の妥当性を吟味するべく)まとめておこうと思います。便乗乙とか言わないでくださいね。
以後、いつものように敬称略、常体で書きます。

貨幣論の深遠さと落とし穴についての山形による批判の要約

山形は「お金を哲学的に理解しよう、本質的に厳密に理解しようという議論」*10を手際よく要約し、ファイナンスの観点から問題の所在は「無限遠でのリスクの価値」の有無であると指摘する。もう一つの重要な指摘は、「価値媒介の手段がハンドオーバーされる」つまり現存の貨幣の寿命は有限であって良く、他の決済手段への移行を想定して良いとしていることで、これによって、抽象的な永遠の寿命を持つ貨幣を想定し、「お金というものが持つ神学的な基盤があって神がいないと経済も市場もあり得ずとか、本当に腐った」超越的議論によって市場均衡を基礎付ける*11必要性はなくなると主張する。
こういった議論の厳密なモデル化の可能性については山形も認めるものの、モデルに基づかない「お金についての生真面目な本質論とか、くそ厳密な哲学的思索とかは、ピントはずれだしかえって有害」とする。

無限次元線形代数における基底の経済学とファイナンスにおける意味

上記の議論はヒルベルト空間(Hilbert space)の可分性(separability)および基底(basis)の存在、さらにヒルベルト空間上の積分方程式不動点(fixed point)の存在についての議論との間に著しい並行関係を見てとることができる。
ヒルベルト空間は量子力学を展開する舞台だが、ここでは線形効用の一般均衡の話として解釈する。
債券市場における代表的個人の一般均衡を考えよう*12。これは、代表的個人について効用の異時点間代替を定めたときに代表的個人の効用を最大化する債券のバスケット(ファイナンスの用語では最適ポートフォリオ)が存在するかどうかを問うことである。なお取引に際し手数料のような摩擦は一切考えない。
そのような債券のバスケットの存在は財空間の可分性(実質的には債券の種類が高々可算無限個であること)および基底の存在に依存するが、これはさらに(一般的な集合論の仮定の下で)選択公理に依存する。この解釈では、均衡において各商品の価値、もしくは数量のなすベクトル空間に基底、すなわち無限の歴史を通じて不変な最小の単位的なバスケット*13、すなわち最小決済単位たる価値尺度財(numeraire)が存在する、*14あるいは市場に存在する債券の売買の組み合わせで「複製できる」ことが不可欠なのである。そしてそのノルムが「無限遠でのリスクの価値」にほかならない。もし価値尺度財の価値が0や負や無限大であるなら、(数量が正の有限値であるとき)均衡におけるポートフォリオの総価値も0や負や無限大になるから、価値尺度財の価値は正の有限の値でなければならない。
要するに、市場均衡の条件、つまりあらゆる可能な取引が決済できるために、財の可能な組み合わせをすべて実現できるようないわば「最大公約数」としての小額貨幣がなければならない。たとえば債券の金額に銭厘単位の端数があるか、数量に端数があるなら、端数金額の貨幣がなければ均衡状態は厳密には実現できない。
そしてこの条件は、財の数が連続無限個である場合や、連続時間での均衡を考えるとき、一般には導くことができない。
つまり、ごく一般的な状況での一般均衡を考えるとき、貨幣についての哲学的考察に出てくるような超越的想定が、関数解析の基本的な定理、ひいてはその前提としての集合論の基本的な仮定に姿を変えて現れるのである。
連続時間での基底の(非)存在については重要な問題なので後でもう一度ここに立ち戻る。これは未来の決定論的予測が出来ないこと、金銭で補償しきれない利害対立がありうることと関係している。

計量ファイナンスにおける非測度論的確率論と量子力学の応用

ヒルベルト空間による資本市場の(離散時間での)均衡モデルは、物理学で非相対論的な自由な量子場(non-relativistic free quantum field)と呼ばれるものと同様であり、ファイナンスの期間構造(term structure)を量子力学状態ベクトル(state vector)に見立てることは数学や物理学のファッショナブルナンセンス的乱用でもなんでもなく、実際に21世紀の計量ファイナンスは事実上量子力学のアナロジーの上に成り立っていると考えてよい。
計量ファイナンスにおいては、その最初期から証券の価格をその不確実性から説明することが試みられてきた。*15
当初からこの考えは測度論的確率論(measure theoretic probability)の枠組みに収まり切るものではなかった*16が、1980年代のメリルリンチにおいて、物理から転向したクオンツ金融工学者)の主導によってオプション価格のプライシングに経路積分(path integral)を明示的に使用することが行われ始めた*17。現在では計量ファイナンス量子力学の関係は広く認識されており、証券価格を通じて市場の曲率(curvature)である利子率も決まっている*18と考えられている。*19

マクロ経済学における波動関数と行列の利用

標準的なミクロ経済学は投資財の需要をその価格で説明し、消費財の需要については所与として扱うことから出発する。これは個人の嗜好や利用可能な技術といった経済外的(実物的)な要因を(少なくとも第一次的接近としては)経済学の外に置くためであり、この方法論的制限ゆえに、ミクロ経済学と計量ファイナンスは相性がよくない。だが、あらゆるものの価格を原理的に説明するために導入されたアロー=ドブリュー証券(Arrow-Debreu securities)の仮定*20 *21は計量ファイナンスの枠組みと矛盾しない。
歴史的には、経済学において消費的な需要を扱いうる発想は幾つか現れており、現代のマクロ経済学にも何らかの形では取り込まれている。オイゲン・ベーム=バヴェルクの主観的効用の理論における波動方程式のアナロジー*22、およびラグナー・フリッシュの計量経済学における伝播子(propagator)(散乱行列(scattering matrix))による定式化*23がこうした試みの例として挙げられる。
(ここから追記)景気循環、すなわち産出の多かれ少なかれ周期的な変動をもたらす経済構造を行列で表現する、という発想は、量子力学のシュレージンガー描像とハイゼンベルク描像の等価性に相当する。行列表示を明示的に経済動学に持ち込んだのはワシリー・レオンチェフの投入産出分析で、これはフランソワ・ケネーの経済表、カール・マルクスの再生産表式、ジョン・フォン=ノイマンの線形多部門モデル、ピエロ・スラッファの商品による商品の生産といった線形動学モデルの系譜の中に位置づけることができる。また、ベーム=バヴェルク以降のオーストリア学派景気循環理論は常にマルクス経済学との相克の中で発展してきたが、その伝統の後継者の一人がヨゼフ・シュンペーターであった。
シュンペーターレオンチェフを擁するハーバードにシカゴからやって来てこの二つの流れ、すなわちオーストリア学派的な「シュレージンガー描像」とマルクス経済学的な「ハイゼンベルク描像」を熱力学や解析力学を援用して統一したのがポール・サミュエルソンの『経済分析の基礎』*24であり、これによって動学的経済モデルは計算可能な基礎(行列の掛け算による時間発展)を得た。またこれは散乱行列に基づくフリッシュの計量経済学とも形式的な互換性があり*25マクロ経済学の実証的研究に道を開くことにもなった。20世紀末時点での主流派マクロ経済学は多かれ少なかれサミュエルソンのこの業績に立脚している。『基礎』執筆時点で量子力学とのアナロジーは明確に意識されていたが、経済学におけるハミルトニアン(社会的富の総量)は『基礎』からはだいぶ遅れてロバート・ソローの経済成長理論の形式的枠組みとして導入された。*26
フリッシュの計量経済学をデイビッド・リカードの古典派経済学(の反ケインジアン的解釈)と接合したシカゴ学派の実物景気循環理論(real business cycle theory)に基づく「新しい古典派経済学」に至ってアロー=ドブリュー証券によるミクロ的基礎付けを持つマクロ経済学ポートフォリオ理論、ひいては現代計量ファイナンスとの接点を持つことになる。*27
(後編IIに続く)

*1:公開当初から多少加筆訂正を加えており、特にヤン・ティンバーゲンとヘンドリック・カシミールパウル・エーレンフェストの下で学位を取得した事実が本稿の観点からは示唆的といえます

*2:市場において同一価値の財が複数あるときに、個々人によってどの財が選択されるか、ということを含む広範な「経済外的」議論の、筆者による仮称

*3:周知のように、主流派のミクロ経済学の観点とビジネススクールなどで教えられているファイナンス理論の観点はしばしば衝突しますが、これはファイナンスがリアルオプションのプライシングなどの形で経済外的要因を自然に取り込むためです

*4:開放経済で政策手段が複数あるとき、同一の厚生水準を実現する政策変数は一般には一意に定まりません

*5:代表的個人を離れて異質性のある生産者や消費者を仮定することは社会学的な想定と言え、こういった仮定の妥当性はミクロ経済学の外側にあります。GDP等の指数算定も、同様の社会学的な想定が形を変えたものとみなせます

*6:心理学な「曲率」として割引率を説明しようとするもので、数学的にはファジイ確率やポテンシャル論と関連します

*7:Kahneman and Tversky(1979), Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk, http://www.princeton.edu/~kahneman/docs/Publications/prospect_theory.pdf

*8:「ネタにマジレス」といわれるかも知れませんが、非現実的な厳密かつ決定論的見方も突き詰め方を間違えなければ意味のあるものだという立場を筆者はとります

*9:ある意味で本稿はいわば山形論説に対して筆者が書いた長い脚注にすぎません

*10:柄谷行人岩井克人の議論が念頭にあるものと思われる

*11:私見では、宇沢弘文の下で数理経済学を学び、宇沢が持ち帰ったシカゴ学派的な法と経済学の日本でのフォロアーの一人として出発した落合仁司は、この理路に沿って、数理神学なる知的袋小路にはまりこんだように思われる

*12:マクロ経済学であれば異質性の極限や重複世代、ミクロ経済学であれば習慣形成といった、経済主体の初期条件や時間的な変化を考えることと同義

*13:量子論においては「量子」、格子ゲージ理論において「質量ギャップ」、微分幾何においては「最小測地線」、数値解析で「体積要素」、微積分学で「無限小」、マクロ計量経済学や時系列解析で「単位根」の棄却、と呼ばれている事柄にだいたい相当する

*14:この論点はおそらくリカードにまで遡ることができる

*15:Bachelier(1900), Theorie de la speculation, http://www.numdam.org/item?id=ASENS_1900_3_17__21_0

*16:Shafer and Vovk(2001), Probability and Finance: It's Only a Game!, http://www.amazon.co.jp/dp/0471402265

*17:Dash(1988), Path Integrals and Options - I, http://users.physik.fu-berlin.de/~kleinert/kleiner_reb3/papers/dash1.pdf

*18:すくなくとも原理的には。市場は不完備であり、完備であるとはあらゆるリアルオプションについて価格付けができることを意味する

*19:Baaquis(2007), Quantum Finance: Path Integrals and Hamiltonians for Options and Interest Rates, http://www.amazon.co.jp/dp/0521714788

*20:Debreu(1959), Theory of Value, http://cowles.econ.yale.edu/P/cm/m17/

*21:Arrow(1964), The Role of Securities in the Optimal Allocation of Risk-bearing, http://www.hss.caltech.edu/~pbs/expfinance/Readings/Arrow1964.pdf

*22:Boehm-Bawerk(1886), Grundzuege der Theorie des wirtschaftlichen Gueterwerts, 経済的財価値の基礎理論(邦訳), http://www.amazon.co.jp/dp/4003413113

*23:Frisch(1933), Propagation problems and impulse problems in dynamic economics, http://www.sv.uio.no/econ/om/tall-og-fakta/nobelprisvinnere/ragnar-frisch/published-scientific-work/PPIP%5B1%5D.pdf

*24:Samuelson(1947), Foundations of Economic Analysis

*25:ただし、よく考えると散乱した「エネルギー」つまり富の行き先についてオーストリア景気循環論と計量経済学の見方は両立しない、すなわち両者が「市場」という概念で意味している対象は異なる。景気循環が死なないためにはレオンチェフ行列にユニタリ性を課する必要があり、このとき実物ショックは永久に消えず経済の中を循環し続ける。これはマクロ経済学における「金利」の扱いの難しさとも関係する

*26:Samuelson and Solow(1956), A Complete Capital Model Involving Heterogeneous Capital Goods

*27:Ljungqvist and Sargent(2004), Recursive Macroeconomic Theory 2/e の序文では流体力学の理想流体におけるエネルギー保存のアナロジーである「消費のオイラー方程式」(Hall(1978), Stochastic Implications of the Life Cycle-Permanent Income Hypothesis: Theory and Evidence, http://www.jstor.org/stable/1840393)の来歴をアーヴィング・フィッシャーとミルトン・フリードマンに求めており、サミュエルソン『基礎』の貢献には触れていない。異時点間での富の保存という考えは一般均衡に基づくマクロ経済学にとって自然なものであり、この「新しい古典派」の理解がケインジアンであるサミュエルソンとソローのものと本質的に異なるわけではない