「現代思想」8月臨時増刊号「総特集 フォン・ノイマン」について

こういう雑誌が出ました

評者は学生時代以来20数年ぶりにこの雑誌を買いました。

総評

予告されていた人選から想像した以上にきちんと各方面から人を選べていて、今回の主役たるジョン・フォン・ノイマン*1の業績について光を当て得ている。通り一遍の「ストレンジラヴ博士」像に寄りかかった記事は、まさに「ストレンジラヴ博士」としてのフォン・ノイマンを論じた記事も含めて、皆無であったことは強調したい。
欲をいえば計算科学数値計算、天体力学、数値流体力学、格子量子色力学等)の専門家がいないことが残念。フォン・ノイマン爆弾(あるいは衝撃波の流体力学)や気象学を研究したが、これらは複数のスケールの現象が交錯するためエネルギー保存則が理解の助けにならないような多体系の挙動に現実的な計算量の枠内でどれだけ迫れるかという原理的問題と表裏一体であって、これを詳細に調べることはフォン・ノイマンの研究全体に別の角度から光を当てることになった筈。
※追記:最近出た論文アンソロジーの中でフォン・ノイマン自身が流体力学について語っていたので、本稿の補遺として覚え書きを書いてみました。

翻訳

青土社「現代思想」という雑誌はたぶん昔から哲学青年を主たる読者として想定している。今回翻訳記事としてフォン・ノイマン自身の講演と、クルト・ゲーデルとの往復書簡を選んだことにこの編集方針は現れている。いずれも内容は初期の数学基礎論に関係するもの。
科学哲学の高橋昌一郎([twitter:@ShoichiroT])氏の翻訳によるフォン・ノイマンの一般知識層向けの講演「数学者」は、歴史を踏まえて当事者の実感をもって、「感想」ではなく客観的な判断に耐える骨太な「意見」を提示している。ただし内容的には日本ではよく知られている事柄が多いと思う。評者は個人的に論理式の量化範囲と複雑さの階層の関係を理解したいと思っていたので、この文言に目を開かれた思いであった。「この問題に結論を出したブラウワーは、集合論に限らず、ほとんどすべての現代数学において、『一般的な妥当性』と『存在』という概念を用いると、そこから哲学的な問題が生じることを示しました」(p.16)。
論理学の田中一之氏の翻訳による往復書簡を読んだ限り、評者の「フォン・ノイマンは近しい人にはとても親切だった」という印象は不変だった。第二不完全性定理についてのフォン・ノイマンの報告は初めて実際に読んだ。書簡の最後を飾るのは有名なGoedel's Lost Letterだが、この一通の手紙は現代論理学の一翼をなす再帰理論という分野のまさに生まれたての瞬間を捉えたもので、ゲーデルはこの分野の成立を学界の重鎮としてつぶさに見守っていたのだ(おそらく若手に多くの助言を与えていた)。この書簡へのフォン・ノイマンからの返答の内容がみつかると良いが、評者は正直その内容には多くを期待できないと思う。講演の解題にもあるが、晩年の彼は忙しすぎた。

評伝

『詭弁論理学』の著者で『オートマトン 言語理論 計算論』の訳者である野崎昭弘氏による「フォン・ノイマン 生涯と業績」は簡潔なまとめで、いろいろ食い足りないところがあるのだが(数値計算の仕事の詳細や作用素論以後の数理物理学関連の仕事が省かれている)、各分野の「常識以前」のところで誰も書かない(あるいは書きたがらない)前提を著者の常日頃の率直さで書いている。
金融工学、ORの今野浩氏による、米国で学んだ際の実体験を交えつつ理論面の要点を踏まえた紹介は日本であまり書かれることのない米国の数理工学界におけるフォン・ノイマンの冠絶した名声を伝えて余りある。アネクドータルな部分では著者の指導教官ジョージ・ダンツィクの伝えたエピソードが興味深かった。*2 *3経済学のイデオロギー的な対立とは別に、ORの世界から見た経済学というのがどのように見えていたかが、鳩山元首相と同時期同分野でスタンフォードに留学した著者によって明確に語られているのも読みどころ*4
宇宙論佐藤文隆氏の記事「量子力学フォン・ノイマン」は独特の諦念のようなものを感じさせる。一般相対性理論の専門家と知って読むと「何時までも物理学に絡まず数学的飾り物に見える一般相対論」(p.75)という過去の語りに非常に屈折した情念が滲む。作用素論の初学者である評者には量子力学の数学的基礎について語っている部分は2割程度しか理解できていないのだが(これが後の小澤正直氏になると1パーセントを切るかもしれない)、淡々と書いているように見えて量子情報処理等での再評価の機運をきっちり押さえ、兵器開発関連の「応用」研究が「多くの基礎研究の芽をばら撒いていったのである」(p.78)と語るなど、3つの評伝の中では数理物理学者としてのフォン・ノイマンの種々の仕事に通底するものを一番深く見据えた内容であるように評者には思われた。

ゲーム&経済学関連

ゲーム理論中山幹夫氏はゲーム理論の内容を一見さらっと書いているようでいて成立史の細かい事情を絡めつつ手際良くまとめている。モーリス・フレシェが提起したエミール・ボレルのプライオリティについての論争を引きつつ(ヒューゴ・シュタインハウスが学生の同人誌に寄稿した論文*5にまで言及している)、変分原理との関わりまでをそれとなく示唆する鮮やかさには舌を巻く。
線形代数統計学の平易なテキストで有名な*6数理経済学者の小島寛之氏は中山氏と比べると歴史的発展を追うよりは(塾の授業のように)平易単純なところから説き起こすが、気づけば行動経済学やコモンナレッジといった最先端の話題に連れていかれている。当然話の粒度は大きく変化しているのだが「高速道路への乗り方」を見ているような鮮やかさがある。
主流派経済学(とされるもの)に対する批判的なスタンスで知られ、斬新な切り口からゲーム理論を分析する竹田茂夫氏は噛んで含めるように経済学の公理的アプローチの限界を戦後のミクロ経済学研究史に即して論じ、モーリス・アレによる反例を採り上げるなど今野浩氏の記事を全く正負反転した立場から論じてゆく(なので両方読むことを強くお勧めする)。素粒子論や量子力学との関わりについて触れているのが目を引く。そこで量子測定理論まで引き合いに出してフォン・ノイマンの哲学を独我論と論断して以後は、評者にはいささか通り一遍に見えるがいかにも社会科学者らしい批判的論調でまとめており、そこまで踏み込むならもっと内在的に論じてもいいのではないか(あきらかに著者にはそれだけの理解がある)、というのが評者のないものねだりである。

計算機科学

アルゴリズム論の岩間一雄氏は極めて具体的な(ノイマン型)計算機アーキテクチャの講義を展開する。しかも具体的な算術演算ではなく(加算器(アダー)の作り方すら省かれている)、マイクロプロセッサが命令をメモリから読み出し解釈実行する部分のみに絞った詳細解説である。評者は計算機に疎いためこの記事をこれ以上内容に即して評価することができないが、命令セットの解釈実行の具体的なイメージをこの記事を読むまで全く持っていなかったことに気づくことはできた。またロータリースイッチで命令をプログラムするというのがUIとして案外本質的であることにも気がついた。
科学技術史の杉本舞氏は「フォン・ノイマンアーキテクチャ」を定義した文献として有名なEDVAC技術レポートの第一草稿の成立史を追う。評者はマカロックとピッツの(正規表現の起源とされる)「神経系に内在する論理演算」フォン・ノイマンに与えた影響についてのくだり(p.139)を注意深く読んだ。この論文はこの時期のフォン・ノイマンの関心を独占したといってよいと思う。またアラン・チューリングが乗算器や除算器の実装に消極的であった(p.140)というのは何というかチューリングらしいと感じた。
人工生命の研究者である池上高志氏は、フォン・ノイマンアーキテクチャボトルネック(マイクロプロセッサが命令を実行する速度がパイプライン化や高速キャッシュなどの工夫でどんどん向上できるのに対してDRAMやHDDからのデータ転送が追いつかず、結果的にプロセッサが遊んでしまうという非効率性)に類する非効率性は計算機構としての生物や計算機ネットワーク、人間の脳にも存在すると論じ、これを多様な分散処理の工夫(生物なら共生や進化、人間なら創造性や身体的スキル向上)の余地としてポジティブに捉える。複雑系の研究の伝統であろうか、博物学的な印象を評者は受けた。

量子測定理論とその周辺、公理的集合論

ハイゼンベルクの不等式の改良など量子測定理論での名声の高い小澤正直氏は前掲の佐藤文隆氏の記事よりもさらに広く深く作用素論を論じるが、前置きの部分は数学基礎論史の概観になっている。フォン・ノイマン同様、著者にとってもこの二つの話題は深く結びついたものなのである*7

量子力学の数学的基礎』(1932)が書かれるまでの数理物理学の研究の文脈を著者は丹念に追ってゆく。フォン・ノイマン量子力学の最初の(共著の)論文について:「数学的道具としては、それまでにヒルベルトが展開してきた積分作用素の理論が用いられた。しかし、積分作用素は、有界であり、連続であるのに対して、実際に、シュレーディンガー方程式に現れる微分作用素は、非有界、非連続であって、積分作用素の理論をそのまま適用することはできなかった」(p.157)この驚くべき平易さにもかかわらず、評者の現時点での理解がぎりぎり及ぶのがこの辺までで、以後の部分にどれだけの洞察が盛られていてもそれを挙げることは評者の能力を超えていることを断っておく。no-go theoremの説明についても評者は全く理解していないが、佐藤文隆氏の記事よりもはるかに詳細に書かれていることだけは述べておこう。この記事を理解するのに今後何年かかるとしてもその価値はあるように思う。
哲学者の西川アサキ氏は量子測定理論の測定者と被測定系の境界を移動/反転する思考実験を通じて、フォン・ノイマン自身の哲学を踏まえつつも、心身問題一般を追究する。哲学と文学の種々の文脈が頻繁に引用され、唐突なアナロジーや感想も混じったかなり晦渋なテクストであって、人によっては単なる衒学的無内容と受け取るかもしれないが、21世紀初頭時点における現代哲学としてごく正統的な問題意識に基づいた考察であるように評者には思われる。個人的には最も興味深く読んだ記事であった。
集合論淵野昌氏はフォン・ノイマンの初期の公理的集合論への貢献について、原論文の具体的な詳細を踏まえて(著者はドイツ語原文を自在に読みこなせる)論じているが、多くの事項について一般向けの読みやすさ、ストーリー展開の平易さを意識するあまり、背景の歴史的、数学的詳細が記述に埋もれてしまっている観はあり、多少とも専門知識のある層にとっては本文よりも註と参考文献一覧こそが興味を引くだろう。

文化史

科学文化論の中尾麻伊香氏はスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』で戯画化された「ストレンジラヴ博士」、すなわち原水爆の推進者としてのフォン・ノイマンを語る。物理学者の自己イメージとしてのファウストの例として、ニールス・ボーアの学生達が1932年に演じた『ブリーダムスヴィー・ファウスト』の話は興味深い*8。評者の記憶によれば相互確証破壊=MADというacronymはフォン・ノイマン自身の発案だった筈だが、勘違いかも。病床のフォン・ノイマンに弟が『ファウスト』を読み聞かせたという史実があり(p.236)、あまりのことに絶句せざるを得ない。フォン・ノイマンを「被爆国」の立場から断罪するような屈折したナショナリズムは(幸か不幸か)過去のものになったことを、この記事全体のトーンから感じ取ることができる。

その他

年表が3つある(pp.49-50、p.77、pp.240-245)のは少し奇異に感じる。最初はフォン・ノイマンゲーデルの、2番目は量子力学関連の、最後はフォン・ノイマンと彼を取り巻く世界との関係を記したものだが、これらの年表を統合できないところにフォン・ノイマンの特殊さが現れている。
編集後記は匿名の編集者によるものであるが、「今や誰もがフォン・ノイマンであり、またフォン・ノイマンでなければならないからだ」(p.246)という一言はどのように高度なスキルもやっつけ仕事以外の活躍の場を見いだしていないような今の世の中を痛烈に評しているものがあると、少なくとも評者は痛切に感じ入るものがあった*9

*1:フォン=ノイマンと表記するのが評者の好みだが雑誌の表記に従う

*2:ハロルド・ホテリング「残念ながら宇宙は線形ではない」(p.65)という批判に対してフォン・ノイマンがダンツィクを弁護した話はダンツィク自身によっても語られている

*3:なおランド研究所は当時のテクニカルレポートをいくつか選んでは公開しており、読んでみると当時あらゆる「操作」(Operation)を(核攻撃に対する反撃、というものも含まれる)自動化するためにどれだけの努力が払われていたかがわかる。http://anond.hatelabo.jp/20090917205128

*4:ハリー・マーコヴィッツポートフォリオ選択で論文を書いたとき指導教官だったミルトン・フリードマンが「これは経済学ではない」と言い、結局マーコヴィッツはコウルズ研究所ごとジェームズ・トービンのいたイェールに移籍した話は有名

*5:この論文自体が英訳されているが、日本語で読める解説としては志賀浩二『無限からの光芒』のシュタインハウスの章を参照

*6:大学への数学」誌上での個性的な文章は印象に残っている

*7:21世紀初頭時点での関数解析の研究において数学基礎論の技術がどう使われているかについては、以下の論説を参照のこと:Ilijas Farah, Logic and operator algebras, http://arxiv.org/abs/1404.4978

*8:評者は最近話に聞いたダヴォスでの1929年のエルンスト・カッシーラーマルティン・ハイデガーの討論後にオットー・ボルノウエマニュエル・レヴィナスハイデガーの弟子達が演じたという劇を連想した。ドイツ語圏の当時の学生のよくやる遊びだったのかも

*9:たとえばこのようなスキルを持った人材をあなたなら月幾らで雇い、どんな仕事をさせるだろうか? twitter.com/yutakashino/statuses/290294325999460352