「直交する外延」:形而上学についての歴史的注釈(part 1)

※準備中の研究について、論文が完成しないかもしれないので知ってることを日本語で簡単に書いてみます。とりあえず典拠は省くので全部根拠のない与太話と思ってお読みいただけると幸いです。ご請求いただければ執筆中の論文のbibtexファイルはご提供します。

17世紀科学革命

「まっすぐな空間」のコンセプトはデカルト、その絶対性はニュートンに由来していると考えるのがまあ常識的な線だと思う(いまでも直積をカルテシアンプロダクトとかいう)。とりあえず彼らの考え方を幾何学的方法と呼んでおくことにする。デカルトが座標を導入したことで幾何学は長さや面積の実測値を現実世界から持ち込んで現実の問題を考える道具になった。

良く知られているように、科学をやる上でこれは非常に強力な方法だし、良く言われるように、それなりの限界もある。

まずデカルト自身の渦動説(ケプラー的な天体の運動に系外の寄与で補正をすることを考えたら自然に出てくる)はライプニッツモナド論に発展したけど、これはまっすぐな空間とは折り合いが良くない。
この渦動説は地動説にまつわる政治的配慮のせいで『方法序説』『幾何学』と同じタイミングでは発表されず、後年の『哲学原理』に回されたけど、デカルトはそれ以前からこの考えを暖めていたらしい。彼の幾何学的方法と渦動説との関係について彼自身がどう考えていたかはよくわからない。
フォン=ノイマンみたく、そこは悩まなかったのかもしれない。

パスカルの『パンセ』でのデカルト批判は有名で、「デカルトの説明は最初の一撃しか神を必要としないから許せない」という趣旨のものが特に知られているけど、「デカルトは科学を深遠にしすぎた」とか「質料と形相はいいけど、具体的に機械を作るとかばかばかしいしあてにならないし使えない」という批判は彼のポールロワイヤル派の信仰による反知性主義だけで言っているものかどうか筆者は疑問に思う。
彼は流体力学のパイオニアで、非圧縮性流体の挙動について当時誰よりも詳しかったし、デカルトの「幾何学の精神」を説明する論文も書いていて、それを支持していた形跡がある。晩年の彼は論文を書いていない、つまり何をどう考えたのかちゃんと説明していない。彼がデカルトに対置した「繊細の精神」が具体的に何を意味するものかはわからない。

あとはニュートンの『プリンキピア』の流体力学パートは大失敗している、というのがどうも専門筋では定評らしい。

ニュートン微積分の使用を避けたのにはたぶんいろいろ理由があって、論敵ライプニッツがいなかったらもしかするとニュートンもその使用をためらわなかったかもしれないが、ライプニッツが想定していたような等質でない宇宙についてあれこれ考えて泥沼にはまるのが嫌だったのかもしれないと筆者は疑っている。

流体力学がなぜ幾何学的方法と折り合いが悪いかといえば、基本的には流体力学が暗に無限自由度を扱うからで、じゃあ無限次元空間で考えれば両者に矛盾は原理的にないではないか、と現代人なら言いたくなると思う(本気で考え出すと偏微分方程式論を学ばなければならないだろう)。
ただ当時の人類にそういうものを扱う技術は何もなかった。出発点としてデカルトの「幾何学の精神」とニュートンの見方はやはり適切だった。

後世との関係からは、この時期の仕事として、倫理学でいわば「論理実証主義」をやってみせたスピノザの名前は外せない。ライプニッツスピノザが死ぬ前年に彼と会って『エチカ』のドラフトを読んでいる。

18世紀の批判哲学

ニュートンの物理学の成功はしかし、現実は計算通りにはいかないし、いろいろ予測は外れるといった日常的な経験とはうまく折り合えないものだった。

ヒュームは法則とか合理的説明とかいうものに論理的な正当化はできない(たとえば明日朝太陽が東から昇ることだって必然的真理ではない)と論じて、これに衝撃を受けたあるドイツ人哲学者が主観的な批判哲学というものを考えた。

カントの『純粋理性批判』は読みづらいことで知られていて、実際筆者も読めていない。ただ、彼の認識論の「触発」に関する議論は、いろいろな資料からの印象だとコペンハーゲン解釈とか量子測定理論みたいな難解さがあるし、彼の形而上学批判の「4つのアンチノミー」は集合論の独立命題とか宇宙論の話みたいに聞こえる。
あくまで似ていると言ってるだけで何らかの意味で「同じ」という主張はしてないのであんまり糾弾しないでほしいのだが、要するに「主観と客観」が一致しない前提で考えるといろいろややこしいことを考えなくてはならなくなるし、無限の対象については有限の証拠を積み上げても決着がつかないことがある、というのが次第にわかってきた。
カント自身は「わからんことはわからんとすっぱりあきらめ、わかることだけを考えよう」と提案した。

ともかくカントはニュートンの「絶対空間」を主観的な判断の「カテゴリー」に名前を変更して、それは客観的にあるわけではなくて考える人間の主観の中に最初からあるのだという風に論じた。

19世紀の生気説、観念論、熱力学

ラプラスの機械論みたいにニュートンの方法はあらゆるものを最終的に説明するはずだ、という考えも出てきたが、19世紀というのはむしろ幾何学的方法で説明のできない物事をどうにか理解しようと苦闘した時代のように思う。

当時の化学ではいろいろな元素がようやく分離されてきたころで、元素の性質がそれぞれ違うことはそれ以上説明のしようもなかった。「化学」が説明のできない人間関係の複雑さのメタファーになるのはもしかするとゲーテの『親和力』あたりが発端かもしれない。

カントの「わからんものはわからんという」潔癖な批判哲学に飽き足りないドイツのロマン主義者は物事を動かす「意志」を重視して、生命とかエネルギーとかいったわけのわからないものが法則に介入して物事を変えていく、といういわゆる「生気説」を展開したけど、これは説明になっていない。

幾何学的方法での説明の及ばないところまで自然界を「理解」したい、というこの思いはやがて哲学上のドイツ観念論(本稿はカントをこれに含めないで区別する)に結実する(当時の政治的文脈もあるけど捨象)。ヘーゲルはその教授就任論文『惑星軌道論』でニュートン批判を展開して、ケプラーの考えとガリレオの考えという根本的に違うものを一緒にするのは間違いだ、という批判をした。(現代の目で見るとハミルトニアンを考える方が良い系とラグランジアンを考える方が良い系、という区別にだいたい相当すると思う)
彼によればケプラーのは「幾何」、ガリレオのは「物理」である、というのだ。つまり好意的に解釈するとポテンシャルを最小化する自然界の働きを解明せよ、という主張である。

ヘーゲルが大教授になってからの著書『論理の科学』、通称『大論理学』の中で「量」と「質」についての考察は重要な位置を占めている(後年のマルクス主義者の「量の質への転化」というのはここから来ている)。実のところこれは熱力学の研究対象となるような現象についていろいろ考察したもので、たとえば過冷却した水の瞬間氷結とかそういうことを考察している。

この「量」とか「質」についてヘーゲルは伝統的な「外延」と「内包」という言葉を併用して考えていた。これはカントの『純粋理性批判』にも出てくる中世哲学以来の語で、デカルト哲学の文脈だと「外延」は「延長」と訳されることが多い。ヘーゲルの論法、いわゆる弁証法というのは最初は成り立っていた区別をぐだぐだに崩してゆく態のもので、現代でもある種の哲学者がやりたがるような非常に頭の悪い議論をしていると受け取られがちだが(悪名高い「量の質への転化」はまさにこの類)、彼がもし全部を明晰に考えることができていたなら彼は熱力学を発明してなければならない。一応先人の苦闘として尊重したい。

蒸気機関研究の行われたイギリスで熱力学の基本的なところが整備されて、これを化学や生物物理(生理学)に適用するアメリカやドイツでの研究の中でこれら古い概念が再発見される。まずギブズが「内包」、ついでヘルムホルツが「外延」を導入する。熱力学で「示強」というのが「内包」、「示量」というのが「外延」のことで、これらの語は1920年代あたりから次第に熱力学の教科書に使われるようになる(フェルミの教科書はこれらの概念を避けて「同次」つまり「均質性」の概念で通しているが、筆者にはその理由をきちんと説明できる自信がない)

ヘルムホルツは単に「外延」を導入するだけでなく、「量」の理論、というものを構築した。これが何か、ということは次節で説明する。