ロシア人数学者/記号論研究者、ユーリ・シュレーダーの業績について

無限オートマトンに関連する先行研究を漁っていてユーリ・シュレーダー(1927-1998)というロシアの数学者に行きあたったので紹介します。

オートマトンの分析と合成の、論理的方法と再帰的方法と演算子による方法

1959年にユネスコがパリで開催した情報処理国際会議(現在では情報処理国際連合(IFIP)が2-3年に1回開催する世界計算機会議(WCC)に引き継がれている)で発表された業績。この会議は、東西冷戦の構図が確定した時期に、西側諸国の中では比較的親露的なフランスで行われており、当時貴重だった東西交流の機会だったと思われる。予稿集の目次によればテーマはデジタル計算の方法、記号計算、自動翻訳、パターン認識機械学習、計算機の論理設計、計算機の未来、アナログ計算とデジタル計算の関係、エラー検出と訂正、情報の収集、格納、取得などが挙げられている。当該発表は記号計算の項にあり、J. W. BackusやA. J. Perlisと並んで問題のロシア人3名の名がある→書誌
現物を眺めてみたら、オートマトンを動作開始からの各時点での状態の(論理和の意味での)*1和である時刻の関数で特徴付け、各時点の状態は微分演算子(追記:原文ではタイムシフト演算子)をその関数に作用させて作り出せる、というような話らしい。まあ、正規表現微分できるので当然といえば当然の内容だし、計算機の話ではなく数学の話としてはごく自然な発想だろう

ユーリ・シュレーダーについて

問題はこの論文の著者3名の最後に挙がったユーリ・シュレーダーという人の仕事内容。生涯で800本くらい論文を書いたそうで、関数解析で学位をとり(イズライル・ゲルファントに連続体問題の「解決」を携えて挑戦し議論の不備を指摘されたが、これが学位論文の元になった)計算機関係の仕事をしていたようで1950年代から1960年代まではIFIPに名前が挙がるが、その後、彼の関心はシステム同定とか投票理論とかを経て記号論カトリック神学に移ったらしい(1977年にドミニコ会の在俗会に入会してそのせいで共産党から排除されたとか、計算機研究所の仕事を辞めた(訂正:降格された)的なことが書いてあるし、1996年からモスクワの聖アンドレ大学で倫理学とか論理学と認識論とか教えてたとある)。混乱のもとはロシア語と英語の対応が一意で無いせいで、Yu A ShreiderとかJulius Anatolyevich Schraderとか表記されているが同一人物の模様
ロシアのMathnetだと、「対合つき測度環の極大イデアルの構造」(1950)とか、「群のバナッハ平均」(1957)とか、「連続群のスペクトル」(1959)とか。Springerで探すと、言語学における変分原理」(1966)とか「投票型システムの多数派構造表現」(1979)とかがひっかかってくる。あと、英語に訳された本として『モンテカルロ法:統計的試行の方法』(1966)があるらしい
ユージン・ガーフィールド*2が訳した(訂正:集めた)ワシリー・ナリモフの作品の中で、『言語の迷宮の中で:ある数学者の遍歴』(1974, 1981英訳)の参考文献にいくつかシュレーダーの仕事が挙がっており、たとえば「記号論の基礎概念の定義について」(1966)というものがある
追記:数学師弟関係データベースだと、2015/5/5現在、ゲルファントの下で1950年に数学で博士号を取得したとして重複して2件登録がある*3。対合つき測度環の仕事はD論だった模様
追記の追記:2015/6/7時点で統合されてる模様。
追記:英語で読めるロシア人による解説としてはこちらがよくまとまっている→Yuli (Julius) Schreider On Systems and Models

追記:上記の情報から読み取れるシュレーダーの人生遍歴

まず若いときに連続体問題に取り組み、作用素環について一通り勉強して、無限次元空間としての「普遍」というものの数学的扱いに通暁(1940-1959?)
草創期のコンピュータの研究の中で言語=記号力学系における普遍の問題(オートマトンの族のなす空間としての普遍)に直面する一方、関数解析や確率論をあらゆる現実の問題に適用(1959-1966?)
中年の危機?言語学の前提としての普遍(ボルヘスの「バベルの図書館」的な普遍)に直面し、記号学への関心を深める。同時期に回心し無神論と手を切る(1966-1977?)
初老期、新トマス主義への明確なコミットと党からの除名、出世の途を絶たれ仕事を干される、順序理論(局所的な位相)と実現される意思決定(大域的な測度)の関係を引き続き深耕する、哲学博士号を取得し、非形式的な研究への注力を増す(1977-1981)
デタント、グラチノスチを背景に次第に持ち直し、晩年にはしかるべき待遇も得る(1981-)

暫定的結論

おそロシア。あと「すべての土地はもう人がたどり着いてる」(C)鈴木慶一、みたいな

*1:よく考えてみたら論理積のような気もするけど、ちゃんと確かめる能力がない

*2:数理文献学の泰斗、インパクトファクターの発案者

*3:明らかに同一人物なので修正依頼をかけた

教科書の顔に落書きをして

※具体的な数学の議論にするにはまだ荒すぎますが、大体全体像が見えたのでメモ

テクストのコノテーションを読む、というといかめしいのだが、たとえば小学生は音楽の教科書の鬼気迫る作曲家たちの肖像に落書きをして、そのいかめしさを別の文脈に移してしまう(批評の初歩だ)

さて数学が苦手な子たちは数学の文章を別の文脈に移して意味の通らない文章を書いて遊んでいた

隠語のように数学/思想用語を混ぜ書きするのは、桑田圭祐の作る猥歌のようなもので、公共の電波に卑語を載せるように、数学者に怒られるぎりぎりのところで遊ぶのはもしかするとちょっと楽しかったのかもしれない

だが、この遊びももう終りだろう

というのは、文章、あるいは記号一般の遊びの数学的原理が明らかになってしまっているからだ

数学が自然言語でできるあらゆることを必要としているから一般的な写像の理論もできその自然な構造の帰納についての理論もできる

作用素を右からかけていく、という操作は作用素のなす半群を定めているし、圏を定義する、というのは、関手という状態遷移で集合という状態を繋いで状態機械を定義すること

メタの階層の段数が連続無限個の場合には、たしかにメタレベルとオブジェクトレベルの区別はつけられないことがある

それだけの話だ

意味、というのは代数でいう付値やその一般化にあたる。経済でいうところの「効用」もそういう付値の一例

測度と付値は基本的には同じものといえる

経済の文脈ではこれは系のシナジーを値踏みするということ
物理の文脈ではこれは質量や確率密度を決定すること

二値での付値を「論理」という

写像を全域的にしようとすると、潰した分(局所だけ見ていても出てこない)は特異点として現れることになる

特異点が正則領域へ移り、正則領域が特異点に移るというのは異なる言語、異なる存在論、異なる世界観の間の翻訳ということ

言葉遊びは特定の言語が定める位相を調べることで、翻訳はその言葉遊びに普遍性が無いことを示すこと

言語における音韻と意味の収束と発散についてのメモ

前置き

Web小説『幻想再帰のアリュージョニスト』における「呪術」についての考察の予備作業として

関連:人間の言葉がある制約条件を課した物理的な系の解ならば

言語の発散:概念定義と音韻や表記の差異化

おおむね19世紀末からの思想潮流で、地口やアナグラムへの着目というものがみられる。これは言語というものが音韻や表記の差異を作ることによって新たな概念を表現する用語を産み出す、ということに言語学者、作家、哲学者が自覚的になったことによる。
言語学者フェルディナンド・ド・ソシュールは晩年にアナグラムに着目した。
ジェームズ・ジョイスの後期の作品は普遍性の無い造語で溢れ、意味の通る文章ではなくなってしまった。
哲学の世界ではジャック・デリダの「差延」(differance)という用語が文法を参照しつつ一種の駄洒落、「差異」(difference)の同音異義語として造語された。マルティン・ハイデガーの「現存在」(dasein)は既存の単語を元々の文法的要素に還元して再解釈を施したもので、ジャン・ポール・サルトルの「即自」(etre-en-soi)のような用語がここからは派生した。G.W.F.ヘーゲルにまで遡れるこういった言葉遊びめいた概念操作の伝統があり、またソシュールが言語における差異の役割を強調したことをデリダは踏まえている。*1

言語の収束:異文化における概念の再解釈と統合

学術用語というものは一応国際的に共通のものであって、基本的なルールとしては定義の行われた元の言語から直訳できないような用語は元の言語のままで通用させる、ということになっているが、実際上どこまでそれが行われるかはやや微妙な場合が散見される。
仏語、独語についても同様の現象はあるが、顕著な例として日本語と英語の用語の対応関係の交錯している例を挙げる:
日本語の「再帰」「帰納」「反映」「反射」と、英語の recurrence、recursion、reflection、induction
日本語の「正則」と、英語の regular、holomorphic
主に数学の分野で重要なこれらの用語は単に対応関係が交錯しているから例に選んだわけではない。これらの用語そのものが異文化を経由した概念の再解釈と統合のメカニズムに関連している。
例えば、光線を屈折させて反対へ向かわせるという意味のreflectionは日本語で通常「反射」「反映」と訳され、関数論では定義域の拡大に関わる定理で用いられ*2集合論では入れ子状になった集合論のモデルを集合として扱う*3という文脈で用いられるが、アンソニー・ギデンズ社会学の概念としてのreflexivityは通常「再帰性」と訳される。ギデンズの再帰性概念は「社会についての認識が社会と相互作用し、社会に認識作用が組み込まれている」という事態(イデオロギーの社会的機能、と考えるとカール・マルクスに遡る問題意識である)を示すが、これでわかるようにreflectionという用語に結びつく概念には、現代日本語で「メタ」と*4呼ばれる「対象についての」という意味合いがある。
そして日本語における用語の割り当てが示唆するのは、社会認識が社会を変える、というプロセスが一種の「再帰」つまり計算的なメカニズムとして捉えうるということである*5。輸出された用語の異文化での再定義、解釈は、その異文化の住人による異質な理解を通じてその用語に結びつく概念の意味に微妙な影響、陰影を与えることになる。

*1:デリダは音韻と表記の性質の違いについて更に深く検討したがこの点についてはさしあたっては立ち入らない

*2:「鏡像の原理」、と訳される場合が多い

*3:「反映原理」

*4:断るまでもないが、これはギリシャ語由来で、アリストテレスの『形而上学』=「自然学の次の巻」という由来がある

*5:ただしこれは社会工学が技術的に可能であることを必ずしも含意するものではない

今年買ったし開いたけど読んだとはいえない本

久保田富雄『数論論説―メタプレクティック理論と幾何学的相互法則』

数論論説―メタプレクティック理論と幾何学的相互法則
束論、調和解析整数論の関係について様子を知りたくて買った。amazonの「キモおやぢ」氏のレビューに引きずられて買ったのだが内容は理解できない。Gaussの文章についての数学史的叙述に引き込まれるものがあった。

外村彰『ゲージ場を見る―電子波が拓くミクロの世界』

ゲージ場を見る―電子波が拓くミクロの世界 (ブルーバックス)
場の理論というのがどういうものか様子を知りたくて買った。今の高い集積度の集積回路の配線をシリコンの上に描くには紫外線では描けないほど細い線を描く必要があり、それには電子線を使うが、外村は日立の技術者でその研究をしていた。電子線はミクロの世界の電磁気学の様子を知る手段としても使える。磁力線とか電気力線のようなカップリングを示す「力線」というものがあるが、これは単なる図上の存在ではなく、ミクロの世界では量子化されたエネルギーの束(Bundle)として実際に見ることができると初めて知った(物質を結びつける「編み目」をつくる「糸」の役割を果たす)。楊振寧(Yang-MillsのYang)は外村チームの仕事を高く評価していて、恋ケ窪にある日立の総合研究所まで外村チームを激励に来たそうだ。

浦川肇『変分法と調和写像

変分法と調和写像
阪大総合図書館の学習用図書の棚に何冊か入っている本。英訳(asin:0821845810)も出ている。
買ってからまだ最初の10ページ程度しか眺めていないのだが、それだけでも買う価値があると思う。少なくとも自分は物の見方が変わったし、調和関数論やポテンシャル論の重要性を認識したし、京都賞のEdward Witten講演に行く気が失せた(この本に書いてある程度のことは完全に理解していなければ話の内容が判るわけがない)。世の中に溢れる高等物理系のPop Science本の解毒になると思う。

池尾愛子『日本の経済学―20世紀における国際化の歴史』

日本の経済学―20世紀における国際化の歴史
日本の経済学史(経済学者学ではない、ただ若干その嫌いはある)の水準を示す本。素人なりに経済学説史を調べていて鵜呑みにしていた話がいくつも否定されていて衝撃的だった。著者はこの本で示された研究内容を米Duke大学を中心とするHistory of Political Economy誌界隈の経済学史コミュニティでも精力的に紹介しており、英語版(asin:041563427X)も今年になって出たようだ。各論説の下敷きになっているのは日本の経済学関係者に著者がインタビューを行って得たオーラルヒストリーであり、その口述内容もどこかで見てみたいものだと思う。

物理的見地からみた計算機構:計算機構の工学的進化と重力場

人類が電子計算機を作り始めて70年くらいになるが、自然や社会の構造の解明の為にその時代において利用可能な知見、技術を最大限投入して作る計算機構(現代では一般にスーパーコンピューターと呼ばれるもの)の構造にはそれを使って挙動を解明しようとする系の構造(あるいはシミュレーションを行うコードのデータ構造)を何らかの意味で模倣する傾向が僅かにある。電子計算機が登場するまでの物理モデルというのは基本的に解明したい系のミニチュアであったのだからこれは当然で、今も風洞実験という事が行われているように、系のミニチュアを物理的に作ってその挙動を観察することは物理現象へのアプローチとして基本中の基本である。高度に一般的な物理系は場の理論としてモデル化されるから、スーパーコンピューターは計算と記憶を局所化し、それらが相互作用する「場」そのものの模倣をめざすことになる。
最高速の計算機が光速の有限性に起因するメモリ参照の局所性(locality)とそれに伴うメモリの異質性(non-uniformity)という制約をできるかぎり回避して性能を出すために高次元の幾何構造をとるこの傾向は、Cray ResearchのCRAY-1(1976年)の円筒形に並べた椅子のような特徴的な外見に僅かに反映されたが、3次元空間上で見て明らかな変化はその辺りが限界であった。量子色力学人工知能の分野で使うことを想定し、Feynman父子が設計に関与したことで知られる、Thinking MachinesのCM-1(1986年?)においては内部の結線で8乃至12次元超立方体(ハイパーキューブ)を実現した(計画段階においては20次元)。神戸のポートアイランドにある富士通の「京スーパーコンピューター」(2012年)はそのコストをめぐる政治的、技術的議論が喧しかったが、この計算機の中核部分にある相互接続部(インタコネクト)であるTofuインタコネクトは6次元メッシュ/トーラス構造になっていて、物理的な結線における高次元化の趨勢はむしろ逆行していることがわかる。これは基本的にはノード数に対するフルメッシュ結線数の発散がコスト上の制約になることによる。
この高次元化傾向は最終的には無限次元空間である量子場そのものを計算機とするという発想に導く。古典的には総当たり的な方法以外に有効なアプローチが見つかっていないような組み合わせ最適化問題を高速で解くことを期待されて現在開発が進められている量子コンピュータはいわば冷却して閉じ込めた無限次元空間そのものであるともいえる。また将来的には配線や冷却など実装技術の進歩によって、自分自身に働きかける超多次元のベクトル空間のようなものを古典的な電子回路として実現できる日が来るかもしれない。
さて、スーパーコンピューターや人間の脳は場の模倣や確率的最適化の為に電子をあちこちに移動させるが、その現実の時空に対する影響はどういうものになるだろうか。もちろん、脳と電磁場が相互作用するからこそ脳科学でも医学の分野でも動いている脳の中をMRIで見ることができるのだし、携帯電話の電波の脳に対する悪影響も、小さいとはいえ皆無ではないことは共通認識になったといえるだろう。だが、量子情報宇宙論ブラックホールのようなものではない、人間の身の回りにある計算機構が作り出す電磁場が重力場とどのように相互作用するか、いまのところ真剣に検討している人は誰もいないだろう。もちろん、年々厄介になる一方である、集積回路の冷却に関わる技術的問題はある意味ではその重力場をどうキャンセルするかという問題と捉えることもできるだろう。天文学的尺度における重力は冷たく大きく淀んだ時空から熱く小さい時空に対して働く解体的な力(潮汐力)であり、クロックで励起され熱せられた論理素子の中の電子団(すなわち強結合電子系の一例)の状態を安定に保つことにも同じ困難があると考えられるからだ。

無限次元射影代数について

以下の主張の数学的、物理的正当性は検証できていません

  • 集合圏Setの圏Univ(当然巨大な圏になる)と多様体の射影の圏Projの関係を考える
  • 集合論の正則性公理(整礎性公理)と巨大基数公理たちはUnivの極限、逆極限
  • 場の量子論では真空の存在(紫外切断)と宇宙の存在(赤外切断)に相当する
  • 射影の圏Projは観測のなす束に相当する
  • ProjはUnivと似ているが一般には極限がない、多様体積分の代数がProjで、これが連続幾何
  • 連続幾何の例としては作用素環やそれを抽象化した正則環などがある
  • Projをコンパクト化したものがUnivなのだろうが、Projはどうコンパクト化すればいいか?
  • Projの1点コンパクト化とStone-Cechコンパクト化の違いに対応するものが作用素環論の中にあるはず
  • 無限遠点を切開して円周上に展開したとき(楕円の双曲化)無限遠点はツリーのリーフたちになる
  • AdS-CFT対応はおそらく一般的な双曲-楕円対応の一例
  • リーフたちを重み付きで数え上げることで無限遠積分することができる
  • 問題はこの操作を両端で同時に遂行することはできないのではないかということ
  • 保型形式一般を「楕円」とみなすと、その離散的な双曲化が存在することは何を意味するか?