言語における音韻と意味の収束と発散についてのメモ

前置き

Web小説『幻想再帰のアリュージョニスト』における「呪術」についての考察の予備作業として

関連:人間の言葉がある制約条件を課した物理的な系の解ならば

言語の発散:概念定義と音韻や表記の差異化

おおむね19世紀末からの思想潮流で、地口やアナグラムへの着目というものがみられる。これは言語というものが音韻や表記の差異を作ることによって新たな概念を表現する用語を産み出す、ということに言語学者、作家、哲学者が自覚的になったことによる。
言語学者フェルディナンド・ド・ソシュールは晩年にアナグラムに着目した。
ジェームズ・ジョイスの後期の作品は普遍性の無い造語で溢れ、意味の通る文章ではなくなってしまった。
哲学の世界ではジャック・デリダの「差延」(differance)という用語が文法を参照しつつ一種の駄洒落、「差異」(difference)の同音異義語として造語された。マルティン・ハイデガーの「現存在」(dasein)は既存の単語を元々の文法的要素に還元して再解釈を施したもので、ジャン・ポール・サルトルの「即自」(etre-en-soi)のような用語がここからは派生した。G.W.F.ヘーゲルにまで遡れるこういった言葉遊びめいた概念操作の伝統があり、またソシュールが言語における差異の役割を強調したことをデリダは踏まえている。*1

言語の収束:異文化における概念の再解釈と統合

学術用語というものは一応国際的に共通のものであって、基本的なルールとしては定義の行われた元の言語から直訳できないような用語は元の言語のままで通用させる、ということになっているが、実際上どこまでそれが行われるかはやや微妙な場合が散見される。
仏語、独語についても同様の現象はあるが、顕著な例として日本語と英語の用語の対応関係の交錯している例を挙げる:
日本語の「再帰」「帰納」「反映」「反射」と、英語の recurrence、recursion、reflection、induction
日本語の「正則」と、英語の regular、holomorphic
主に数学の分野で重要なこれらの用語は単に対応関係が交錯しているから例に選んだわけではない。これらの用語そのものが異文化を経由した概念の再解釈と統合のメカニズムに関連している。
例えば、光線を屈折させて反対へ向かわせるという意味のreflectionは日本語で通常「反射」「反映」と訳され、関数論では定義域の拡大に関わる定理で用いられ*2集合論では入れ子状になった集合論のモデルを集合として扱う*3という文脈で用いられるが、アンソニー・ギデンズ社会学の概念としてのreflexivityは通常「再帰性」と訳される。ギデンズの再帰性概念は「社会についての認識が社会と相互作用し、社会に認識作用が組み込まれている」という事態(イデオロギーの社会的機能、と考えるとカール・マルクスに遡る問題意識である)を示すが、これでわかるようにreflectionという用語に結びつく概念には、現代日本語で「メタ」と*4呼ばれる「対象についての」という意味合いがある。
そして日本語における用語の割り当てが示唆するのは、社会認識が社会を変える、というプロセスが一種の「再帰」つまり計算的なメカニズムとして捉えうるということである*5。輸出された用語の異文化での再定義、解釈は、その異文化の住人による異質な理解を通じてその用語に結びつく概念の意味に微妙な影響、陰影を与えることになる。

*1:デリダは音韻と表記の性質の違いについて更に深く検討したがこの点についてはさしあたっては立ち入らない

*2:「鏡像の原理」、と訳される場合が多い

*3:「反映原理」

*4:断るまでもないが、これはギリシャ語由来で、アリストテレスの『形而上学』=「自然学の次の巻」という由来がある

*5:ただしこれは社会工学が技術的に可能であることを必ずしも含意するものではない