安定性はなぜ重要か?
モデル理論と幾何
超越論的範疇(Kant)の数学的定式化
- MacLaneの弟子Morley「冪における範疇性」→Tarski学派に合流、Vaughtの下へ
- Loewenheim-Skolemで無限対象領域の基数は確定しない(基数に関して範疇性は成り立たない)が、特定基数における範疇性の有無は考えうるし、範疇性がどの基数で成り立てば他の基数で成り立つかという「安定性」の概念も生じる→Shelah
- Morley論文と同時期に「自然変換の理論」から「圏論」になる
- 「量化子と層」のLawvereもEilenbergの下で学んでいてTarski学派で論理学の「研修」
変分原理と諸分野との関連
エネルギーの保存と安定性
角谷の貢献の意味
- Princetonの束論屋にとって角谷の存在が重要だった理由を理解する必要がある
- 角谷FPTはエルゴード理論との関係で必要
- メタ数学の文脈(モデルの射影列)で読み替えると?
地口(オヤジギャグ)の剛性理論
我が家はリフォームしてあるが古い物件であり、遠くの音がよく室内に響くし、寝室は竜鳴きするし、トイレは洗濯機のドラムに共振する。
スピーカーは同じ製品でも経年変化に所有者の音楽の好みが反映して全部出音が違ってくるし、古いギターやヴァイオリン、古いホールも響きがよくなる。つまり機械的インピーダンス特性が経年変化してくる。
人間の脳も神経細胞を振動子と思うと大域的な「剛性」や周波数と変位の大きさの関係(インピーダンス特性)を考えることができる。もちろんこの「剛性」は3次元上の連続体としての脳ではなくその生化学的状態を含む相空間上で定義する必要がある。
経年劣化によって「剛性」が低下した神経系は音の響きで励起されやすくなるだろう。つまり、地口を思いつきやすくなるし、言いたい誘惑に勝てなくなる、ということ。
若い人の神経系はもちろん「剛性」が高いと考えられる。
応用として、たとえばソーシャルネットワークの「バズりやすさ」はこの意味での「剛性」として考えることができるだろう。
彼らはなぜ狂うのか
昔「狂った人達」という名スレがいちごびびえすというところにあったんですよ。
追記:クレジットするの忘れてた!長沼伸一郎のこの文章に触発されたことは否めない→知的世界の仮想的海洋は、どのような距離と深度の関係で構成されているか
いいかげん数学をロマンティシズムから解放すべき
一定レベルを超えて傑出した数学者のある割合は病的パラノイアに冒されるという経験的事実があって、例はいちいち挙げないけど、これを「無限という概念は人間にとって有毒なのかも」みたいな解釈をする人が多い。
たぶんそうじゃなくて、全体的な閉じた世界観を構築すること自体がパラノイアの原因で、そしてそこまで精緻に考えつめる人の外的現実はたいてい貧弱で、閉じていて、開いた現実を退けるような不健全な性格の人が多い、だからあたりまえに生きてる人なら誰でも感じる人間の認識能力の実際的限界が感じられなくなるし、全体観を道具主義的に扱えなくなるということ。自分を神と錯覚する、という言い方があるけど、たぶん当事者はそんな風には考えてなくて、むしろ自由な人間を代表して、いっそ悪魔と手を結んででも、決定論の神と戦わなければとか思ってたりする。もちろん全員がそうなるわけじゃないし、時代を下るほど軽症化してる印象もある
単純に組み合わせ論的な思考が脳に負担ってのと合わせ技かもしれない(純粋に組み合わせ論だけ考える人ってそんなに病んでる人少ない気が)
閉じた空間を開くと(開いた双対を考えると)無限遠点が冪に対応する、ってだけの話を理解するために人生棒に振るのはもうやめませんか。あれはただのアーティファクトです。神がおられるとしても冪の極限みたいなものと同一視するのは一種の偶像崇拝じゃないでしょうか。
国際経済学における基軸通貨のデザインとか環境問題とか
クルーグマンが言ってるように、あれはもう職業病だと言いきっていい。貨幣論でへんなアナロジーとかでごちゃごちゃやっているうちはまだ軽症で、大物になると国際社会を操作しようとする
合理性はコンフォーミズムであり必然だけれど、外部性ってのは意図であり神だから、なにかそういうものに加担したくなるのね
これはだから「悪魔と手を結んで神と戦う」の変種ともいえる
貨幣のシミュレーションやってても
ていうか異性装に走る基礎理論の男性研究者目立つっしょ?中年になってから性同一性障害こじらせる人とか。
あれもたぶん職業病で、国家の家父長的秩序かなにかに本能的な嫌悪感が出て来るんだと思う
悪魔の誘惑に最初に屈して知恵の実を食べたのは女だったわけで、やっぱり秩序に対して欲望を肯定する、というモチーフがあるのだろう
まとめ
自分の存在を規定するような妄想においても均衡をどちらに動かすか、とタクティカルな思考を捨てられないのが経済学者の業ってやつなのでしょう。
蛇足
森嶋先生の交響楽的社会科学の話は上のどれにも該当しない気がするけど、かれ自身は裏経済が社会科学の暗黒領域だって言っていたから、やっぱり何か超越的なものと戦うというモチーフの虜になっていた気はする
大先生症候群って概念はつかいたくない
あとこの文章を書こうと思った直接のきっかけは宇沢先生の訃報
経済学における重力(補遺)
以下の補遺は落書きレベルの書きかけですが、あえて書いて晒しておくことにします。ちゃんとした数学的素養のある人が見たら誤りだらけで読めたものではないと思いますが、これらの点について明らかにするまではやめるわけにはいかない、という表明のつもりで置いておきます。随時改訂。
補遺II:信号処理としての時系列解析と関数解析
そもそも、線形作用素は電子回路としてはオペアンプに相当し、信号処理の言葉でいえばフィルタや発振回路そのものであるから、行列で表される「場」とベクトルで表される「状態」の関係は、いわば増幅率が1に等しい「入力と出力を短絡したオペアンプ回路の伝達関数」とその特性によって発振される「音の音色」の関係に他ならない。これが時不変であるとき「不動点」ということになる。
この「フィルタ」という概念は信号処理と位相空間論で使われているが、後者は前者をある意味で抽象化した概念である。作用素論として見た関数解析とは段階的にフィルタの特性を規定していくことであって、〜
このように、フィルタ特性を特定することは場を特定することであり、段階的に詳細化される知識と関係があることがわかる。これは、集合の包含関係が、ある意味ではその各段階の線形代数と関連していることにほかならない。
(追記)上の行は誤り。正しくは、「集合論のモデル達がメタ数学的に位相空間をなす」「作用素環を集合論のモデルとみなすことができる」
この段階的詳細化を逆に辿れば射影、すなわち量子力学でいう「観測」となる
前者は角谷の不動点定理、後者はシャウダーの不動点定理の主張であって、両者は相互の帰結であるとともに、通常の集合論の公理系において選択公理と同値である。
補遺III:無限次元線形代数のメタ数学における基本的事実
量子力学のハイゼンベルク描像の基盤である無限次元線形代数学はゲルファント、フォン=ノイマンらによって(線形)作用素論、作用素環論として整備されたが、無限次元線形代数に関する基本的なメタ数学的事実をまとめて書いてあるものを、浅学にして筆者は見たことがない。これは関数解析、代数、数理論理学のいずれの研究者も彼らにとって自明な事項をわざわざまとめる意義を感じていないからだと思われるが、ごく文系的な関心事として、経済学における「知識と富」の関係や、経済学の方法論(科学哲学)を検討するのであれば、認識枠組みとしての代数の性質は決して非本質的なテクニカルな細部ではない。本編の議論からは若干外れるが、後編IIの議論の背景の理解にも役立つと思われるためここで簡単に述べておく。
まず最大の難点は、行列表記によって具体的外延的に線形作用素を指定する手段が一般には無いことである。これは異様な主張に見えるだろう。というのは、たとえば左上と右下の要素をいくつか書いただけで「以下省略」という無限次元行列を書いているものや、直和分解して個々の行列は有限個の要素以外0になっているような行列の和の形で表記したものを我々は普通に目にするからだが、省略した要素が指定されているための条件は、それが明示的に書かれている要素から自然に類推できる再帰的なルールで構成されている、ということであり*1、再帰的なルールで各要素を指定できない無限次元行列、すなわちランダム行列の具体的な表記は、単に存在しない。具体的外延的に指定できる作用素は作用素全体の中で零集合にしかならず、また線形代数の式でA+B=Cなどと書いた作用素A,B,Cの存在や一意性を示すことは、式の導出に誤りがなくても、作用素を具体的に示す方法がないため、有限次元の場合と異なり一般には困難である(たとえば無限次元行列のトレースは有限次元の場合のようにに対角化した行列の対角要素の掛け算で簡単に定義することはできない)。存在しないものについては何を仮定しても誤りではないので、導出した式は単につじつまが合っているだけで無意味なのかもしれない。
次の難点は、そもそも作用素の空間の集合論的なサイズである基数、すなわち、作用素が何個あるかはレーヴェンハイム=スコーレムの定理から、非常に任意性があることである。そもそも作用素の代数的な公理は作用素の和と積について閉じた代数である作用素環が集合であることすら(すなわち基数を持つことすら)一般には保証していない。何も制約がなければプロパークラスである可能性すらある。プロパークラスとは、集合については必ず成り立つメンバーシップ関係である∈-関係の整礎性を集合論的に保証できないような対象のことであり、直観的には基数が定義できないほど巨大な「集合」を意味する。
更に、作用素について、それを対角化したときの固有値が全て整数であること、というようなきつい制約をかけたとしても、それらの作用素全体の基数は連続体濃度以上になり、その階層的類別構造には集合論の通常の公理*2では確定できない任意性がある。これは作用素環に対応する関数空間が無数にあって全部を調べきれないことを表している。
作用素論では、このように、把握するには多すぎるし一般には漠然としていて十分な具体性を持たない対象である作用素を扱うため、個別の対象をピックアップするのではなく、むしろフィルタをかけて対象を抽出する、という議論を行う必要がある。そのフィルタも、作用素として定義するのであれば十分な具体性を持たない場合があるから、フィルタを絞り込むためのフィルタが必要になる場合があるし、それが何段階も必要になることもある。いずれにせよ「抽出」という操作は一意性を保証するものではない。
線形代数(無限次元ベクトル空間)のモデルの基数や範疇性についてはMorley、Shelah等の研究があり、ベクトル空間が可分な場合には普通に考えられるような範疇性を損なうようなことは何も起こらないことがわかっているが、
補遺IV:社会的選択理論と動的計画法の関係
(Arrowの不可能性定理における「独裁者」の選出のステップを、動的計画法の時間軸と結びつけることで、社会厚生関数の存在と一意性についての議論を捉えなおすという話をしたいのですが、まだアイディアだけです)
(たとえば議題の提出順序で決定が変わるのは級数の無限和の不定性の問題と似ていて、どちらもおそらくフィルタを使った整理が有効と思います)
補遺V:Sonnenschein-Mantel-Debreu and global instability of economic "self-gravitational" field
(タイトルのみ、もしかすると本編に入ります)
老害、無能、廃疾者、老大国の経済的独立と社会的排除についてのメモ
問題意識:全人類のほとんどが経済合理的に行動できない(生産性がない)ほど経済合理性の基準が純化されたとき、純然たる消費者としての無能な家畜である人類を、どのように安全に経済から排除していくか?
あるいは、人間の社会からどのように人間の役に立たなくなった経済を排除していくか?
リバタリアンのいう経済的独立、というのを本気でやるとミリシアは必然、ネモやハーロックや海江田が理想ということになる、ワンピースの影響はスパロー船長を生んだ
この系統の思想から出る指針とは「世界を真に支配する者は深く静かに航行/潜航せよ」ということであって、これは実態上はスキルの専ら守秘的な使用と情報遮断と表面的な無為、ニート化、在家隠修、社会からの撤退
合理的な選択の結果としてこういう無害な夜郎自大化を選ぶ人数が増える(不当な影響力の行使を断念して経済的安定を求める)ならば体制は安定に向かうが、これが実際にできるのは無能、老害だけ
無能、老害も社会との関わりを完全に断つことは難しい。自負心から、ハーロックは鉄郎に、スパローはウィル・ターナーに、要りもしない無益な老害のアドヴァイスを与えるし、その類例は現実にいくらでも見いだせる
不当な影響力を排除し、隠居を強いるには隠居すべき当人たちが「余計な口はもう挟まない、文句もいわないから金だけくれ」と納得する必要があり、その為にはおそらく更なる暴力と疫病が彼らを不安がらせる必要がある
簡単な方法は戦乱による衛生の悪化と物流の寸断による餓死だがいずれも先進国では成り立たない(わがままを言う子を物置に閉じ込め泣き止むまで出さないという虐待と同じ)
貧しい国で起きている戦乱はそもそも新興国をBRICS(「煉瓦」)、PIIGS(「豚」)等と呼んで人間扱いせず高成長の果実を散々収奪した先進国が「子泣き爺」に見えており(先進国の方がむしろ愛玩用の豚に似ている)その重みで潰される恐怖から出ている
天然資源の恩恵によって太らされ食われる豚(新興国)と子泣き爺化してその果実を収奪する豚(先進国)の対立とは生産と消費の分離によるもの
そもそも情報化によって文明の根幹である製造技術の維持に必要な人数は減っている
ヘルシンキ・ブダペスト雑感
背景
派遣先でちょっと長めのお盆休みが取れた(取らされた)形になっている。ただ、不安要因があって、個人的には所属元での有給を使い切らないか不安→無給休暇として問題なくとれた
雑感
- いちど中央ヨーロッパを見てみたかった
- どうせならJohn von Neumannの生家をこの目で見たかった(2003年に構成的場の理論で知られるArthur JaffeがAMSとハンガリーのボヤイ数学会の共同イベントで顕彰石版を埋め込んだ)
- フィンエアーで行くのが早くてヘルシンキ乗換えになるのなら、「かもめ食堂」の国も見てみたかった
- 行きはロシア上空、帰りはロシア、中国、北朝鮮上空経由。昨今の情勢ゆえ第三次世界大戦の鏑矢よろしく無警告射撃で撃墜されるのが怖かったが何も起きなかった
- 新冷戦の到来をもちろん喜ぶ気はまったくなくて、ただアンカレッジ航路の復活は時間の問題だと思う
- 北欧、中欧は東洋人にフレンドリーでない(もちろんフレンドリーな人もいるけど何人かにあからさまに避けられると凹む)
- 安宿とダウンタウンの宿には気をつけたほうがいい
- EU通貨統合に参加せず極右政権による労働鎖国が行われているハンガリーは目下第二次安部政権下で同方向の政策を驀進中の日本と似た閉塞感があって、もちろん主権国家としてそういう政策をとる必然性を理解するけれども(日本についても幾分かは)、あまり晴れ晴れした気分にはなれない
- 煙草は丸の中にTの文字を書いた政府専売店で売っている、徴税のために専売化したらしい
- フォアグラがすべておいしいとは限らない
よかったこと
- ヘルシンキのダウンタウンから少し離れた、市場のある公園近くのレストラン、量が多すぎるので注意だけど安いしおいしいし日本語メニューも用意してあった
- 森のキノコのスープと揚げたニシンがおいしかった
- ヘルシンキの宿の朝食で出たベリー類のミックスがとうてい日本では味わえないレベルで美味
- Lisztの銅像を見た、Liszt音楽院というご当地の名門音大があるらしい
- ペスト(ドナウ東岸)のお土産通りにある教会St. Michael's churchでやっているDuna String Orchestraの演奏は技術も高度でパワフルで自由自在という感じ、自分は度胆をぬかれた
- ニシンの塩漬けのマリネ(ディルの入ってるやつとか、いくつか種類がある)はヘルシンキで食べて気に入ったのでブダペストでもペストの中央市場で買って飽きるほど食べた(また食べたい)
- 塩漬けは砂糖を少し加えて〆るのがポイントらしい
- 生の肉や魚は中央市場の地下で売ってる、あとスーパーマーケットも地下にある
- 中央市場では他に鱒を買ってシンプルに焼いてディルを添えて食べたが満足、屋台のグヤーシュ(牛肉のパプリカスープ)*3も安くて旨い、パーリンカ(フルーツブランデー)も良かった、スーパーで買ったマッシュルームで作った森のキノコのスープも悪くなかった
やっとけばよかったこと
- どちらの国でも温泉に入ってない
- ヘルシンキではトナカイの肉を食べていない*4
- あんず茸(『かもめ食堂』で幻想的に使われていたキノコ)はシーズンではなかったのだと思う
- しゃれたカフェやシナモンロールやマリメッコなどのファンシーなお土産も見ずじまい
- ブダペストではさくらんぼのスープを飲みそびれた
- ブダ(ドナウ西岸)の王宮内の電話博物館で世界初の電話交換機の模型があるらしく見ておきたかったが種々の事情により断念
- ボヤイ父子の事跡も辿っていないし皇妃エリザベート(シシィ)の事跡も見ていない
- ブダの小高いゲッレールトの丘から棕梠の葉を掲げた女性像が市内を見下ろしていて、よく知らずシシィと勘違いしていたが見に行けていない
- ていうかそもそもブダには足を踏み入れてない
- ドナウのクルーズもやっていない
- BartokやKodaly関係も全然
- せめて「ハンガリー民俗舞曲」の棒踊りでも弾いてみせれば(自分は弾けない)それをとっかかりに会話くらいはできたのだろうか
忘れたいこと
経済学における重力(後編II:経済的ポテンシャルとその緩和過程)
前説
前回の記事「経済学における重力(後編I)」では不変の価値尺度財(理想化された貨幣)の存在とその整合性が、無限次元線形代数の「基底」の問題として考えられること、連続時間での困難は基底の非存在によるものであることを指摘し、計量ファイナンスにおける量子論とのアナロジーのごく概略に触れ、無限次元の一般均衡に基づく計量ファイナンスが、経済学において通常は所与として扱われる実物的需要を(オプション価値の一般論として)取り込んでしまっている事情を説明しました。
しかし、この一連の記事のタイトルは「経済学における重力」となっていますが、いままでのところ、「重力」の話は少なくとも明示的にはしていません。*1計量ファイナンスの量子論的見方が依拠するヒルベルト空間は線形的(linear)・加法的(additive)であり、相対論的重力の依拠する空間の歪曲(非線形性、優/劣加法性)はその枠組みに入らないからです。*2
一般均衡に基づくマクロ経済学や計量ファイナンスの基礎にあるアロー=ドブリュー証券の仮定は市場が完備であること、すなわちありとあらゆるリスクは証券化して売買できることを主張するものですが、取引コスト(transaction costs)*3の存在する現実の世界では微小なリスクの取引は市場として成り立ちません。たとえば海産物の先物取り引きは好況の時期に欠品リスクのヘッジ手段として開始されるのですが、現物のだぶつきによる値崩れ、流動性の枯渇からすぐに市場が機能しなくなります*4 *5。実数論という盤石な仮定に基づきいくらでも細い線を引ける古典的数学の世界と、測定手段によって決まるある太さがなければ線を線として視認できない現実の世界は違っていて、アロー=ドブリュー証券の仮定は前者の領域に属しています*6。
では無限次元の一般均衡は絵空事なのでしょうか?たとえば株式市場でのアルゴリズム取引は洗練され、21世紀初頭時点において、市場の流動性維持の見返りとして決済インフラへの高頻度アクセスを許された一部の市場参加者の収益を産んでいます。この高頻度取引(high-frequency trade)は公平性の観点から疑わしいものであり、市場を均衡に近づけるよりはボラティリティを高めているようにも見えるのですが、金融市場を高頻度で観測、介入する、ということが、小さい値動きのエネルギーから収益を上げることを実際に可能にしている点で理論的に興味深いものです。計算機や通信回線の高度化によって一部の市場参加者に限らず、小口の投資家も同様のスピードで注文を行うことができるようになれば、小口投資家から一部のHFTトレーダーへの収益の流れは断たれ、市場は再び均衡へと向かうはずです。
均衡へ向かう経済発展の経路が、知識や技術とどう関わっているかを明らかにするということは、経済成長理論の中心的課題であり、マクロ経済学における、市場と実物的詳細の接点はここにあります。時間軸の測定単位の微細化によっていわば「冪的に」細分化された市場の状態空間上での取引が均衡に向かうには、まず時間軸の測定単位が共有されることが前提となります。時間軸の細分化による市場の「高度化」は何の新しい価値も産み出していないかもしれませんが、では空間の細分化による、たとえば新素材の開発は、実物的に何か新しい価値を産み出してはいないでしょうか?
知識や技術の偏在は地理的条件と同じくしばしば独占的競争を可能にしますが、情報の時間的/空間的配位という観点からは知識や技術の偏在も地理的条件も同じものと捉えることができ、これは統計力学的な分配関数から定まるポテンシャル(自由エネルギー)が熱や物質の流れを生む、という物理学の見方と符合します。オプション価格理論におけるブラック=ショールズモデルと熱拡散のアナロジーはよく指摘される*7事ですが、これはポテンシャルの正則化と伝播というそもそもフーリエが追究していた*8テーマが、何か知識や技術の偏在/拡散と関係していることを示唆します*9。これはまた、天文学で論じられる、自己重力系における質量分布の緩和過程とも類似しています。
メディアや大企業経営者、経営学者などが好んで語る国家や企業の競争優位*10という重商主義的な考え方をアダム・スミスが退けて以来*11 *12、経済学者はこのような考え方*13を退けるよう訓練されていますが*14、一部の国際経済学者が高度な応用問題として、たとえば国際通貨制度はいかにデザイン/安定化されるべきか、とか、通商・関税政策はどうあるべきかといった問題を検討する際には、経済的ポテンシャルの考え方は自然に現れてきます。経済的ポテンシャルの緩和過程を、経済全体への「相場観」の浸透・共有と解するなら、これはワルラスの模索過程(tatonnement)*15、エッジワースのコアへの収束*16やサミュエルソンの顕示選好原理(revealed preference)*17といった考え方を貫く原理でもあると筆者は考えています。以下ではこのような経済的ポテンシャルとその緩和過程について、経済学説史を適宜参照しつつ検討しようと思います。
確率論と経済学におけるBertrandの逆説に見られるように、
社会科学における重力モデルについて
ナッシュ積
幾何学的相互法則
開放経済における政策手段の独立性/従属性について
最適通貨圏
経済学における無限小=価値尺度財の最小単位
無限小≒超体積要素≒基底≒測地線
効用の不一致はいかにして可能なのか
*1:基底の存在は相対論的場の量子論ではいつも問題になるし、利子率を「市場の曲率」と表現したのも微分幾何や相対論を意識した表現ではあります
*2:重力による宇宙の位相幾何的構造を量子場の次元縮約の結果と捉える見方は基礎物理学の研究者の間では一定のコンセンサスとなっているように見えます
*3:Coase(1937), The Nature of the Firm, http://www.jstor.org/stable/2626876
*4:Martinez-Garmendia and Anderson(2000), An Examination of the Shrimp Futures Market, http://oregonstate.edu/dept/IIFET/2000/papers/martinez2.pdf
*5:Bergfjord(2007), Is there a future for salmon futures? an analysis of the prospects of a potential futures market for salmon, http://www.tandfonline.com/doi/ref/10.1080/13657300701370317
*6:オプション価格は一般に時間の不連続関数であり、連続時間でのアロー=ドブリュー証券の仮定は財の価格の関数が一般に滑らかでないことを意味しています
*7:Mehrling(2005), Fischer Black and the Revolutionary Idea of Finance, http://www.amazon.co.jp/dp/0471457329
*8:Fourier(1807), Memoire sur la propagation de la chaleur dans les corps solides, http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k33707/f220
*9:フーリエ展開で関数をスペクトル分解することは、その関数が定める位相空間のいわば「冪をとり」、直交関数系のなす束、つまり位相空間たちの位相空間の上で考えていることになり、これはゲオルグ・カントールやポール・コーエンが実解析から集合論へ関心を移した背景でしょう。こうした関数空間は許容する関数の特異性の程度に応じて無数に考えることができ、たとえば超関数の空間などもその一例となります
*10:Porter(1998), Competitive Advantage of Nations, http://www.amazon.com/dp/0684841479
*11:Smith(1776), An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations
*12:Ricardo(1817), On the Principles of Political Economy, and Taxation
*13:List(1841), Das nationale System der politischen Oekonomie
*14:Krugman(1994), Competitiveness: a Dangerous Obsession, http://www.foreignaffairs.com/articles/49684/paul-krugman/competitiveness-a-dangerous-obsession
*15:Walras(1874), Elements d'economie politique pure, ou theorie de la richesse sociale
*16:Edgeworth(1881), Mathematical Psychics: An Essay on the Application of Mathematics to the Moral Sciences, https://archive.org/details/mathematicalpsy01goog
*17:Samuelson(1938), A Note on the Pure Theory of Consumers' Behaviour, http://www.jstor.org/stable/2548836