NHK 超絶 凄ワザ!「幻の技法解明SP 明治の超絶技巧を再現せよ!」(2016年9月24日放送):多様体の滑らかな変形について多くを教えてくれる映像

上記のテレビ番組を観た際に筆者が考えたことを簡単に述べたいと思う。筆者としてお伝えしたいのは、番組が2016年10月1日の16:35-17:05に再放送される予定であることと(実際の放送時間は電子番組表でご確認ください)、面白いので特にある種の人は本放送を観ていないのであれば絶対に観るべきであることの二点である。
追記:当該番組はNHKオンデマンドではこちらから視聴可能な模様。

番組の概要

この番組はNHK名古屋放送局が制作して2014年から放送されているドキュメンタリーで、主に製造技術分野での高度技術(state of art)をチーム対決仕立てで見せるという趣旨のもので、まあフジテレビの「ほこxたて」からの影響は否めない。とはいえ筆者は今回偶然に観るまでこの番組を知らなかった。
工芸の手法として、鍛金というものがある。これはどういうものかというと、金属板を鍛造、すなわち叩いて変形、伸縮させ、望む形の彫刻を作る、というもので、自動車などの板金加工の延長線上にある手法といえる。
明治時代の鍛金工芸作家、山田宗美(1871-1916)の、鉄板による作品は現代では再現不能とされる高水準の工芸品である。彼の主要作品は出身地の加賀市美術館に収蔵されており、没後100年の今年、特別展が催された他、常設の展示もある。
今回番組で取り上げたのは彼の作品「鉄打出兎置物」であり、現代の鍛金家、小林有矢がこの作品の部分的な再現に挑んだ。番組の立て付けとしては過去の名匠に現代の職人が挑む、という体である。なお山田や小林の仕事について筆者は全くの無知であることを付記しておく。

筆者の感想


写真:山田宗美作、鉄打出兎置物(勝手ながら加賀市美術館のロゴ画像を貼らせていただいた)
山田の「鉄打出兎置物」の兎の両耳部分は約11cmの高さがあり、これらを一枚の鉄板から溶接も鍛接(二枚の金属片に加熱、加圧して接合)もなしに穴を開けることなく打出すことは素人目にも常人のなしうることとは思われない。
幾何学的にいえばこれは連結性を失わずに特異性を生ぜしめるということであり(穴が開いたら種数が変化してしまうので)、ミレニアム数学問題のひとつである3次元ポアンカレ予想についてグリゴリー・ペレルマン(Grigori Perelman)が分析し遂行可能性を証明した、非特異化の操作を、逆順に辿れば、ほとんどそれそのものの操作といえる。
さて一旦そう見えてしまうと、筆者には、番組の中で小林が山田の作品の再現のために直面するあらゆる困難が、3次元多様体の変形にあたって直面する数学的困難と対応しているように思えてならなかった。
板金加工や、機械工学一般について知識のある方にはおそらくは肉厚を削るということの必要性や困難さを説明する必要はないのだろう。肉を削りすぎれば加工の度に強度が低下して、いずれ穴が開くのだ。
つまり、強度は接続の存在に、肉厚はエントロピーエントロピー密度)とか質量ポテンシャルとか、そういうものに見えてくるのだ。
これ以上語れば完全に興を削ぐであろう。あとは再放送をご覧頂くことを望むばかりである。なお番組に数学や物理学は一切登場しない。

リッチフローと幾何化予想 (数理物理シリーズ)

リッチフローと幾何化予想 (数理物理シリーズ)

播口陽一『ネットワーク・テクノロジー』

Cisco Catalystの中核部品開発者によるEthernet物理層の解説本

FE/GbEのオートネゴシエーション任せにしてhalf-duplexを選ばれてしまい痛い目を見た人は多いと思いますがどのようにそれが動作しているかご存じでしょうか。この本はEthernetやATMの物理層について当時最新の技術を解説していた数少ない本です。GbEやバックボーンの10Gの時代には少し古い内容ですが(ATMなど新規構築ではもう使われない技術もあります)基礎知識は古びていません。
著者はInternetのCIDR移行期に、緑の箱で知られるC社のネットワークスイッチの中枢部品であるTernary CAM(連想配列メモリ)のVLSM対応を行い、関連する特許を書いています(たとえば米国特許US 6307855 B1で検索してみてください)。自分はこの本の元になったUNIX Magazineの連載時に読んでいました。UNIX Magazineの事実上の廃刊のあおりもあってこの隠れた名著が知られていないのは残念なことです。
(初出:2013/7/20 Amazon.co.jp レビュー)

筒井多圭志『ADSL―Asymmetric Digital Subscriber Line』

SoftbankBBの立役者によるADSL技術サーベイ

もはや物理層としてのADSLは光化によって駆逐される過去の技術であり、この本を技術的興味から手に取る人もいないでしょう。可聴帯域を超える電気信号を細かく帯域に分割して電話線に流し、デジタル信号処理によって可能となる高度なエラー訂正によって高速通信を可能にするという意味では無線の(携帯電話の)スペクトラム拡散通信とも共通の基礎をもつADSLの技術は、冷戦の終結によって民生転用可能になったかつての軍事レベルの技術ですが、同時にV.22/V.22bis→V.32/V.32bis→V.34→V.90と高速化した(可聴帯域用の)アナログモデムの延長線上の技術でもあります。
学生時代のCコンパイラ開発で一部には知られていた著者はデジタル信号処理と通信技術を知悉しており、工学部から医学部に編入、医師としてデジタル補聴器の開発などに携わり、当時再開発が行われていた六本木ヒルズの情報インフラの設計に関わった後、1990年代後半にSoftbankBBのADSL事業の技術面での中心人物となり、ISDNとの干渉などNTT系の技術者との論戦などで矢面に立って事業を成功に導き、2013年現在も同社の執行役員です。この本には著者が会社の支援なしで(大学に在籍していたとはいえ)独力で技術論文や特許を調査して理解した情報が沢山詰まっており、予備知識の無い人にはこれらがすべて公開情報から調べることができるとは信じられないと思います(今はGoogle Scholarや特許検索、IEEEウェブサイト等も充実しておりずっと楽になりました)。
デジタル信号処理の基本的な知識がなければ何が書いてあるかはわからないと思いますが、これだけの技術知識が、関心と若干の語学力さえあれば個人の力で収集し理解できるし、時宜を得れば大事業さえ興せるということは普通の人にとっても勇気付けられる話ではないでしょうか。
(初出:2005/5/16 Amazon.co.jp レビュー、改訂履歴不詳)

ADSL―Asymmetric Digital Subscriber Line

ADSL―Asymmetric Digital Subscriber Line

現在地どこ?

I feel thin, sort of stretched, like butter scraped over too much bread.

The horror! The horror!

この文章未満の趣旨

  • 自分(40台既婚男性)がここ10年近く感じているぼんやりした恐怖感についてとりとめのない妄想を語ります
  • あたまおかしいのは自覚してるので相手にしないほうがいいです

自分はどっから来たんだっけ?

  • 2011年のあたりからすごく人生が不調なのでなんかそこより前に戻すには情報が足りてない
    • 2010年末に数学やりたくなって金谷健一先生の『数値で学ぶ計算と解析』読んだらなんか疑問がいろいろ解けて、そしたらあれが起きた
    • 6月に大阪に出張行ってたときに体調を崩した、年末には清水明先生の『熱力学の基礎』勉強してた
    • 建て直せてるのかどうか、ともかく2016年5月現在もう金が全然ない
    • ともかく2011年より以前にどうやって生きてたのかあんまり思い出せない
  • あれ見てまだ自分の人生に現実味があると思える人なんているんだろうか
    • あの前に「表面上生きてるけどとっくにゾンビ」ってモチーフ、アニメとかで流行ったよね、シャナとかまどかとか、スカイ・クロラとか?
    • このモチーフの元ネタってディックの『ユービック』ではなかろうか
    • 世界的にも低成長下で瀕死のヒューマニズムにとどめをさした感ある(とりわけ、安全な原発、という矛盾だけが可能にしていた幸福がたくさん失われた)
  • ポニョって何だったんだろうとか
  • 大井町のアトレで見た2012年春夏のNatural Beauty BasicのCMがいまだにトラウマ
    • 長澤まさみの前に積み上げられた椅子が瓦礫にしかみえない https://www.youtube.com/watch?v=hIXQROA5bEI
    • CMであえて流さなかった歌詞「おしえてここは何処?私生きているの?/海の底かしら?」がすべてを物語ってる
    • もちろん南波志帆の声の寄与が大きいけど、細野晴臣のフーガのエッセンスと松本隆の「死」のスパイスを使ってこの歌を一人称単数のレクイエム(take me to blue heaven)に読み替えた連中の創意おそるべし
  • きゃりーぱみゅぱみゅの2013年のハロウィーンソング「もったいないとらんど」に入ってる不協和音が緊急地震速報の伊福部(甥)サウンドに似てるとかそういう
    • ハロウィーンは西洋のお盆なので、当然鎮魂の意図があるわけで
    • この世に「もっといたい」魂魄が最後に語る成仏の「わずかな期待」が実らないとまで暗示する
  • これ系の作品としてなによりまず高澤俊作の「もしも緊急地震速報がオーケストラだったら」を記憶に残すべき
    • 「もしも般若心経がオーケストラだったら」も必聴

でもまあまた別の大地震が来たわけで

  • 新しい現実は、それがどんなに希薄にみえても以前とは違うから。。
  • エメリッヒの映画「2012」そのままに床が裂けた工場とかあるんだけどね、人類に箱舟作る余裕ないっしょ
  • 日本沈没と同工なんだけど、この映画で世界をマントルに飲み込ませるための仕掛けとしてニュートリノが増えて地殻が不安定化する、という与太が出てくるけどこれは真実とは逆な気がする、ベータ崩壊ニュートリノが出るんだからニュートリノ密度は希薄な方がたぶん不安定になる、まあだとしたらニュートリノが降り注がないような場所には(物質を成り立たせる真空の斥力が不足して)行くことすらできないから確かめようもない、地殻のマイクロ波による加熱とかそういう他の候補の寄与とのバランスもよくわからないけど

力と現実、社会の解体と個人の狂気

  • ある観点からの歴史叙述の妥当性を粉々にするだけの力が暴力にはあるし、人の営みは津波で押し流せる、戦争や天災は価値観の多様化を圧倒するというのは2001年以降何度も自分はみてきた
  • 強い重力の下では「物質」(フェルミオン)と「情報」(ボゾン)の区別も崩壊するけど(ブラックホールの表面に貼り付いてエニオンになっているのだろう)、「史実」の「等価質量」ってどのくらいなのか、価値相対性というのは情報の伝達速度が有限なことからくる物理的必然だよな?
  • 物質をインプロージョンレンズとかの爆圧で「びっくり」させたら核力をちょっと解放するし、人間社会を地震とかで「びっくり」させたらやっぱり人命の損失に伴って社会のシナジーの一部を吐き出す気がする、吐き出されたシナジーの減少分はどこへ向かうんだろ?巡り巡ってどこかで誰かの妄想、狂気を励起したりしてないか?

Windows 10用Windows PEの環境構築

前提

  • ターゲットは64bit、UEFIの環境
    • 32bitの場合は適宜読み替えること
  • 素性のまっとうなWindows 10(64bit)のまっさらな環境(作業台)は用意されてること
  • まっさらな(少なくとも変なパーティション切ってない)USBメモリがF:にあること

Windows ADK for Windows 10の入手と導入

マニュアル類

平均的な日本在住の日本語話者にとっての要求仕様と思われるもの

  • とりあえずAndroid携帯のテザリングでネット接続したいのでRNDIS入る
  • 日本語フォント、日本語パック、各コンポーネントの日本語サポートも入って、日本語モードで上がる
    • WinPE 4.0以降でIMEは使えなくなった
  • 起動した先で同じ作業をしたいならDISMとか全部入れる必要がある(本稿ではここまで書かない)

イメージの構築まで

  • [展開およびイメージング ツール環境] を[管理者として実行]
  • 管理者モードじゃないとDism /Mount-Imageでひっかかる
 set SD=C:\WinPE_amd64
 set PP=C:\Program Files (x86)\Windows Kits\10\Assessment and Deployment Kit\Windows Preinstallation Environment\amd64\WinPE_OCs
 copype amd64 %SD%
 Dism /Mount-Image /ImageFile:"%SD%\media\sources\boot.wim" /index:1 /MountDir:"%SD%\mount"
 Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\ja-jp\lp.cab"
 Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\WinPE-FontSupport-JA-JP.cab"
 Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\WinPE-RNDIS.cab"
 Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\en-us\WinPE-RNDIS_en-us.cab"
 Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\ja-jp\WinPE-RNDIS_ja-jp.cab"
 Dism /Set-AllIntl:ja-JP /Image:"%SD%\mount"
 Dism /Unmount-Image /MountDir:"%SD%\mount" /commit
 MakeWinPEMedia /UFD %SD% F:

Dism /Unmount-Imageする前に:

  • 背景画像を差し替えたければC:\WinPE_amd64\mount\windows\system32\winpe.jpgをいじる(ただしownerとcapabilityの変更しないと上書きできない)
  • 入ってるCab一覧
 Dism /Get-Packages /Image:"C:\WinPE_amd64\mount"
  • 入ってるデバドラ一覧と追加導入
 Dism /Get-Drivers /Image:"C:\WinPE_amd64\mount"
 Dism /Add-Driver /Image:"C:\WinPE_amd64\mount" /Driver:"C:\SampleDriver\driver.inf"
  • なんかうまくいかなくてC:\WinPE_amd64を削除したかったら以下でアンマウントしてから
 Dism /Unmount-Image /MountDir:"C:\WinPE_amd64\mount" /discard
 Dism /Cleanup-Wim

謝辞

この非人間的な苦痛を伴う作業は南波志帆さんの歌声なしには遂行できなかったことを特に記す次第です

歴史修正主義の概念と基本原理


以下では歴史修正主義(historical revisionism)の概念とその基本原理を論じる。概念の解明のためにその歴史的背景についても論じるが、史學の方法論や具體的な史實の認定の是非については議論しない。 *1


21世紀初頭における「歴史修正主義」と言ふ概念は一般的にはホロコースト否定論との關聯で理解されてゐる。 1978年にフランスの文學研究者ロベール・フォリソン(Robert Faurisson)は新聞紙上でナチスによるユダヤホロコーストを否定する主張を行ひ、また翌年資料調査を圖書館等から斷られた事について各國の著名な學識者に反對署名を募り思想信條の自由を訴へた。 署名に応じたひとりに現代の形式的言語學の父で左派政治活動家としても有名なノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)がゐた事から一聯の出來事は大きな論議を呼んだ。 同年にフォリソンらの「歴史見直し」活動の國際的據點として「歴史見直し研究所」(The Institute for Historical Review)が設立され、現在に至るまで活動を續けてゐる。
ポストモダン」すなわち後近代といふ單語を一般に流布せしめた哲學者ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard)は『文の抗争』(Le Différend)でフォリソンを取り上げ、ホロコースト否定論を論じた。 *2科學史家のトマス・クーンやポール・ファイアアーベントの「共軛不可能性」(incommensurability)の概念と、後期ウィトゲンシュタイン哲學の「言語ゲーム」の概念を借りてリオタールは史實をめぐる論爭は相互に異なる前提に立つ共軛不可能な言語ゲーム同士の「文の抗爭」であり調停不能とし、また科學哲學において實驗事實を扱ふ際の標準的な考へ方である操作主義(operationism)*3を意識して、犠牲者と證據の消滅を「測定機械のすべてを破壞してしまつた地震」と表現した。 簡單に言へば相對主義哲學であり、フォリソンの主張に倫理的に同意せず、その論理的妥當性を是認し、その前提を立ち入り不能のものとして事實上容認するものであつた。これらの主張に際して表面的に借用された(當時の)現代哲學の意匠を取り拂へば、リオタールの哲學はカント哲學の「物自體を直觀しえない」との主張のみに據る觀念論哲學である。
ドイツでは戰後民主主義を擁護する立場から哲學者ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Harbermas)がリオタールの哲學を、相互理解不能であることの理解を求める撞着と批判し(同様の批判はアメリカでもリチャード・ローティーらの説に対してしばしばなされている)、また1986年の新聞論説「過ぎ去ろうとしない過去」(Vergangenheit, die nicht vergehen will)*4においてナチズムをスターリニズムと比較してその清算を主張した歴史家エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)とも論爭を行つた。
一般的な讀書人にとつて史學や歴史解釋は本職の歴史家が考へるよりは概して柔軟なものと捉へられ勝ちだが、 これら一連の相對主義的議論はかういつた柔軟な理解に資する出來事であつた。


reviewといふ英語の原義は「見直し」であり、學問の文脈においては書評や査讀など、文脈に応じて他者の主張の論理的瑕疵や妥當性を檢證する作業全般を示すごく一般的な語である。revisionは通例日本語では「改訂」と譯されるreviewの類語であり、見る行爲の結果としての見え方(vision)を變更する原義を持つ。例へば著書の「改訂」とは著者の見解や實質的な主張内容の(増補を含む)變化を著書に反映する行爲であつて、改版に伴ふ單なる誤植の訂正とは本來區別されなければならない。これにイズムのついた「修正主義」は上述のやうな「見直し論」を史學的營爲に含めない批判的立場から用ゐられるが、 1980年代には多くの學問分野において、論文の論題としての「修正主義的見解」(a revisionist view)がことさらに批判的な意図なく「再訪」(revisited)や「再檢討」(reconsideration)といふ傳統的な論題に變はつて一時的に流行した。「再訪」や「再檢討」と「見直し」「修正」の意味合ひの違ひは前者においては(實際にさうするかは別として)史料の閲覽、調査の爲に遠隔地に赴いて見る行爲や史料を机上に置いて檢討する行爲が一応示唆されてゐるのに對し後者が專ら歴史解釋を視覺的に(視野、觀點の違ひとして)ややものぐさに捉へてゐることであり、これは無視出來ない哲學上の差異をもたらす。「歴史修正主義」をホロコースト否定論とその反批判の枠を超えて思想としてある程度の自律性を持つたものと考へる所以である。
「修正主義」といふ概念は元來共産主義、社會民主主義運動の思想對立において生まれた概念であり、暴力革命ではなく社會改良による勞働者階級の解放を指向する「ベルンシュタイン主義」「社會改良主義」ないし「漸進主義」(gradualism)を批判的立場から示す語と考へてよい。これは共産主義の正統派を自認するロシア共産黨指導部からはマルクス資本論の教義の「改訂」(revision)を目論むものと位置づけられて否定されてゐたが、戰後自由主義圏の共産黨が多かれ少なかれソビエトロシア政府との聯繋を弱め社會民主黨として選舉による政權獲得へと動く中で事實上これらの政黨の標準的政治理念として採用された。「修正主義」の觀念はソビエトロシア内部、あるいは中露間の政治鬪爭を通して、自由主義圏においても廣く知られ、流布、一般化されていつた。
ソビエトロシアにおける共産主義は修正主義のやうな「ブルジョア的虚僞意識」を排しそれとは正反對の唯物論的な科學主義に基づいてゐると主張されてゐた。 自由主義圈は繁榮と反共(反全體主義)をこれに對置したが、1970年代末にはブレジネフ體制の下でロシアの經濟的退潮は明らかになつてきた。自由主義圈における全體主義への抑壓(全體主義に對しては思想の自由を制限すること)はこの時代背景の中でしだいに弱まり、フランスやドイツで自國の過去の歴史を相對化する機運が生じたのである。フォリソンやノルテは自説を思想の自由、反集團主義、少數意見の尊重などの論點で補強し(後に日本でも藤岡信勝は「自由主義史觀」を唱へた)これに反對する議論もリオタールにせよハーバーマスにせよ極めて相對主義的、觀念的な自由主義の擁護であり、反全體主義を事實上無化する性質を帶びてゐた。この意味において1978年はまさしく現代歴史修正主義の起源の年であり、自由主義は反論不能のドグマと化したのであつた。
ここで一旦、日本語固有の問題に觸れておかなければならない。現代日本語において「正」「整」「制」の文字は同音であり不用意に混用され、あるいは法律の分野におけるやうに濫用されてゐる(ただし部首から明らかなやうに「整」は「正」の派生語であり現代標準中國語(北京語)でもアクセントの違ひのみで區別される)。たとへば「修正」には曖昧なニュアンスがあり、これは「改正」同樣に、必ずしも「正しい方向への變更」とは捉へられてゐない。日本語の「正」が事實上"view, vision"の譯字として用ゐられてゐるからだが、日本語による思考が一般には強い相對主義的傾向を有することの一つの表れでもある。


あらゆる史實は過去に屬し、現代に生きる我々が得るものは史料であれその評價であれ過去との相關において存在する事象であつて、過去そのものではない。これらの事象すべては現代の解釋者の尺度において評價され理解される。これは事實の社會的構成という皮相の話ではなく、自然法則の必然から成り立つてゐる話である。
唐突かつ奇異の感を免れないが、遠近法によつてこの状況を説明したい。畫家の視點は繪畫の外側にあり、從つて繪畫は常に主觀的視點からの映像であるし、畫家の視野の中にあつてさへ、遠いものは無限遠の地平線へと集約されてしまふ。實際にはあらゆる物理的測定がこの嚴密な意味においては主觀的であることを免れない。*5例へば放射線を幾分か吸收する物體に含まれる特定の放射性物質の量をその放射の測定値で嚴密に定量することは内部吸收の問題から不可能であり、その效果を勘案して測定値を補正することは臆測に屬する。歴史敍述も歴史家そのものの利害關心の客觀的敍述を含み得ないし(主觀的な補正は常に幾分か可能である)、歴史家の着眼點から外れ、あるいは隱れてゐる事象は當然省かれる。
この視野の限定はあらゆる主觀が恣意的であるからではなく、單に限定された時間と空間に屬することによるのである。放射性物質の例であれば、檢體をバラバラにして巨大な測定裝置で檢査すれば精度は上がるだらうし(裝置の巨大化に伴つて別の誤差が生じるかもしれない)、原理上はおそらく放出する熱を長時間かけて測定し、汚染されてゐない同種の物質と比較することによつて内部吸收線量の見積もりの精度を上げることもできる。また、歴史上の決定が密室で行はれたとして、その當事者の證言や傳聞證言が後日現れれば場合によつてはその決定についての定説が覆る。これらの新事實の出現は主觀の恣意性とは何ら關係がない。
現實に對する嚴密に客觀的な視點とは、このやうに後から判明するものも含めた全ての歸結についての評價であり、これはもはや宇宙の生成から消滅に至る全事象を知ることと同義である。
ここから更に次のやうなことが判る。つまり、過去の事象の影響は遠く未來を變え得るし、未來における行動は過去の評價を大きく變化させる。實例を舉げよう:1912年にオーストリアハンガリー帝國領のBerehove*6から移住して米國ニューヨークのブルックリンで小間物屋を營んでゐたハンガリーユダヤ人の夫婦に子供が生まれた。東欧地域で稀でないポグロム(ユダヤ人狩り)を逃れてのことであらう、「樂園追放」を暗示する「ミルトン」*7という名を附けられたその子供は長じてのち經濟學者となり、戰後レーガン政權時代の軍擴路線を代表する反共思想家として名をなした。*8彼の孫の一人は祖父と同じく「フリードマン」の姓を名乘り、Google社の技術者であつたが、退職し無人島を贖入して獨立國の建國を目指すことが近年報じられた。彼の名は「パトリ」すなはち「父なる郷土」を意味する。*9この名を一族の歴史と無關係と考へることは難しいし、名とその企圖との間にも偶然とは言へない關係がある。すなはちこの企圖はおそらく一世紀前のポグロムの一歸結である。
未來における行動の中で直接的に過去を變へる方法として、怨念のやうに意志を個人的關係の中で傳へてゆくことが可能であり、かうした「怨念」は實際に各國のナショナリズムの底を支へてゐる。過去の出來事によつて犠牲となつた人間の遺志の繼承や名譽恢復を何らかの理由で望む者が存在し、政治的影響力を行使し續ける限り、それが「史実」であれ「捏造」であれ過去は現在に、そして未来に影響を及ぼし續け、過ぎ去らうとはしないのである。
ただしかうした影響は總じて年月の經過と共に減少していく。そして國家もまたこれらの影響を小さくし、統治の正統性を安定させるために教育といふ手段を有してゐるのであり、歴史教科書における史觀の見直しが政治的鬪爭の目標となる理由もそこにある。*10

(初出:2013/4 正かなづかひ 理論と實踐 第4號

*1:[補注] 筆者が本稿を執筆した契機の一端として、西岡昌紀による一松信『代数系入門』のAmazonレビューを目にして、所謂史実否定主義(denialism)の精神的背景について再考を迫られたことを記しておきたい。問題のレビューはこちら:http://web.archive.org/web/20150729162931/www.amazon.co.jp/review/R3OQOUOX3VLA43

*2:[補注] 文の抗争 (叢書・ウニベルシタス)

*3:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Operationalization

*4:[補注] http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~bessho/Vorlesungen/VorMaterial/Nolte1985Vergangenheit.pdf

*5:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Measurement_in_quantum_mechanics

*6:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Berehove

*7:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Paradise_Lost

*8:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Milton_Friedman

*9:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Patri_Friedman

*10:[補注] いうまでもないことだが、2015年現在の日本においては「歴史戦」という概念を掲げ、諸外国における歴史認識の書き換えを政治目標とする勢力が存在する

仕様と実装の混同についてのメモ

人間はかくも不完全であるが恩寵によって全体を帰納=幻視する。

しかしそれは移植可能な方法でレジスタサイズを(つまり機械にとって自然な整数の最大値や浮動小数点数のマシンイプシロン≒「質量ギャップ」乃至「グルーボール」を)知ることが出来ないのと何が違うだろうか。
我々が同じとみなすコードが具体的なマシンアーキテクチャ上でどのような機械語に落ちるかを制御できないなら、移植可能ではないことになる。実際のところ、コンパイラのブートストラップの一番最初のところでは人間が手で書いたマシン定義を信頼するしかないし、たとえば64bitマシンで32bitのアーキテクチャ定義をしても問題が起きないようにはできるだろうけど、32bitマシンを64bitマシンと錯覚させてブースストラップさせようとしてもどこかでひっかかるのではないか(もちろん仮想記憶とか浮動小数点演算エミュレートの要領で64bitアドレッシング/演算命令をOSでトラップして処理するような場合、それはアプリケーションから見えているマシンアーキテクチャとしては64bitである)。対象言語とメタ言語の関係はCと機械語の関係であって、もちろんLISPのようにその両方が同じ言語であっても全然構わないけど、メタ言語の方が記述の抽象度が落ちる、例えば自然数空集合からつくったり宇宙(プロパークラス)を冪集合でエミュレートするのと、オブジェクトの宣言、生成破棄や参照の解決の裏側(所謂メタオブジェクトプロトコル)をメタ言語で記述するのは同じこと。
レジスタサイズが有限なら、それにおさまりきらない整数についての主張は自然な実装(多倍長整数のようなものではなく、1命令で演算できるような)を持たないわけで、これがNelsonの数学的帰納法の正当性についての懸念の背景にあると考えると別に奇妙なことを主張しているわけではないかも(つまりインダクションステップに対応するプログラムはバグらない自然な実装を持たない)。もちろん最初でちょっと触れたように、おそらく彼の中では構成的場の理論の問題とも関係がないわけでもない。ただ哲学的には混乱していると思う、つまり仕様と実装の混同がある。有限長で仕様(定義)が書けるとしてもその完全な実装(実現、具体化)が有限長で収まるとは限らない。KdV方程式とその解たるソリトンの無限自由度たちとか、Pour-Elの意味で「計算可能」な超越数の定義とその冪級数展開や10進展開とか、正規表現とそれにマッチする文字列たちとか。