カンタベリーの聖アンセルムスは何語で話したか?

ルネサンス頃までの中世キリスト教世界には、神様についてあれこれ論理的に考える習慣がありました。神様についての研究がそのまま物事や知識の「本質」についての研究でもあったので、これは神学とも哲学とも科学ともいえます。したがって学者は基本的にキリスト教の僧侶、修道士です。みなラテン語を読み書きし同僚と(相互に「兄弟」と呼ぶ修道士たちです)議論し、論文や著書はタイプライターも紙もレーザープリンタLaTeXarXiv もなかったので羊皮紙に記しました。コピーも手作業なので、羊皮紙のページに毒をべっとり塗り込むような暇な修道院長のいるところでは死人続出。

現代ではこれをスコラ哲学と呼びます。スコラというのは scholar つまり学者さんないし school つまり学校、学派、のことです。問いを設定しこれに答えるために論文を書き、先行研究を引用して自説の基盤や反駁の対象としてそれらを検証し、矛盾のない解釈を提示するとか、そういう学術論文の書き方や博士号の審査のための口頭試問などの習慣はこのスコラ哲学の時代にいろいろ整備されました。現代でも google scholar などで英語論文を漁って読んでいると et al. (et alii/alia) つまり and others や i.e. (id est) つまり that is、e.g. (exempli gratia) つまり for example などラテン語の略語が散見されますが、スコラ哲学の名残です。


カンタベリーの聖アンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033?-1109)は初期スコラ哲学の代表的な学者といわれており、「神様というのはそれ以上に大きい存在がないなにものかであると定義する。それを心の中で思い描くことができるが、それはそれ以上に大きい存在がない以上思い描けるだけでなく実際に存在する。従って神様は定義により必然的に存在する」というような議論をしたことで哲学史に名を残しています。いわゆる「神の存在論的証明」で、後年デカルトが同様の議論をしたとのことです。
もちろん数学的には順序があるからといって最大があるとは限らないわけで、この定式化における弱点もそのへんだと思います。ただし、アンセルムスが主張している正確な内容については、哲学の常として議論のあるところですので、上記のいいかげんな紹介を鵜呑みにすることなく、各自ご確認ください。



彼はアオスタ(イタリアの北西部、フランスおよびイタリアとの国境近くで、当時ブルグンド王国領)で生まれ、ノルマンディー(フランスのドーバー海峡に面した地域で、白亜質の痩せた地質でリンゴと梨の産地。当時バイキングの末裔がここを領有していた)のベック修道院で主要著作の『モノロギオン』『プロスロギオン』を書きました。


当時はノルマンディーがイングランドを侵略し(The Norman Conquest, 1066)植民地化した頃です。古英語(アルフレッド大王が使っていた、『ベオウルフ』の言語)は確立しており書き言葉としても使われていたのですが、この侵略の結果、イングランドでは支配階級がノルマンディー訛りの古フランス語を喋るようになり、それは現代英語で学術用語や食べ物に関連する単語の多くがフランス語起源になっている原因でもあるわけです。


そしてヨーロッパ各地での聖職叙任権闘争の真っ最中。要するに領主と教会が土地の利権を巡って争っていた時代です。アンセルムスも1092年にベックにおける師、ランフランクスの後任のカンタベリー大司教としてイングランドに渡りますが(彼が「カンタベリーの」と呼ばれるのはこのため)、ノルマンディー王兼イングランド王である征服王ウィリアム1世の三男、ウィリアム”ルーファス(赤顔王)”2世ともめ、最終決着は1107年まで長引きます。


アンセルムスは教区民に慕われていたといわれていますが、ノルマンディーから乗り込んできた中では、アンセルムスはノルマン人ではなくイタリア人で、いわばローマ教皇の「回し者」ですから、結果的にイングランド人にとっては「敵の敵は味方」のような形になったのかもしれません。


ところで、ローマ帝国の東西分裂に伴って、キリスト教会もやはり東西に分裂し、今のギリシャ正教ロシア正教に連なる東方教会は、西方教会(ローマカトリック)と教義上でも対立していました。イエス様は「他の人と同じただの人間」ではない、という点についてはおおむね双方の合意がありましたが、東方教会は「神様はイエス様と同格でない」西方では「いや同格です」という論争がありました。これを西方教会信仰告白文の当該箇所の語句からフィリオクエ(Filioque)問題と呼んでいますが、アンセルムスはこの時期、この論争で西側の代表者としてローマで会議に出席し、また『クール・デウス・ホモ』(なぜ神は人となったのか)を書いて西側の見解を擁護しています。
現代人はこういうのを神学論争と笑いますが、彼らにとっては教義の仕様や礼拝のプロトコルのシリアスな標準化作業でした。実務はたとえばISO規格策定の為のWG委員や各国代表の仕事とそんなには違わなかったはずです。現代の標準化委員会でも、政治的な理由で決裂とか却下とかが確定しているのに、会社から給料もらってやってることだし、一応提案書は書かないといけない、ああ面倒くさい、やりたくねえ、みたいな状況は珍しくないことでしょう。
ただし、さっきと同じことを言いますが、この論争の正確な内容・経緯についても、神学の常として議論のあるところですので、上記のいいかげんな紹介を鵜呑みにすることなく、各自ご確認ください。


さて、彼は何語で話していたのか?


まずミサ司式についてはすぐ答えが出ます。ローマ帝国時代以来、1964年の第二バチカン公会議以前のカトリック教会のミサはラテン語で行われていましたから、当然ラテン語を使っていたということになります。マリア様を讃えるなら「あう゛ぇ まりあ ぐらちあ ぷれな」という、戦国〜江戸初期の切支丹が唱え、いまもクラシック音楽のレクイエムの歌詞カードにある通りだったはずです(ただ発音は多少違うかも)。


また論文や書簡の類もみなラテン語です。イングランド(ノルマンディー)王との手紙でのバトルもラテン語です。


アンセルムスがラテン語を習いはじめの時期に先生に質問したりしたのは古イタリア語を使っていたと考えられます。ただし『神曲』は1321年ですから、書き言葉としてのイタリア語と言えるものは確立していません。


アンセルムスがキャリアの大半をノルマンディーで過ごしたのは確かなので、日常会話はノルマンディー訛りの古フランス語で行っていたのかもしれません。


東西対話についても想像の域を出ません。東側はギリシャ語を使いたがり、西側は当然ラテン語を使おうとするでしょう。アンセルムスの出た会議はローマのラテラノ宮殿(ムッソリーニ政権との条約など、よく教皇庁が会議に使う場所です)で行われましたから西側のホーム、東側のアウェイです。おそらく議事はラテン語で進められたものと考えられます。