『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007)の書評未満のなにか

自分はこの本をきちんと読めるだけの集中力がなく、拾い読みした程度でこの感想を書いています。ファクトを細切れにしてテキスト全体に薄くまぶす書き方は正直どうかと思った。歴史叙述は難しいのです。。

あと日本人は総じて神様を信じていないので「われ歴史の証人たらん」の気概を欠くきらいはあると思います。

三角帽子とか蠅の王を期待する向きには済みませんがそこまで凄い話ではないです。

追記:著者名を「原丈史」と誤って表記しておりました。ご指摘ありがとうございます。

書誌と梗概

2007年に講談社から出版された単行本の2010年の文庫版([1])。
著者、原武史は日本政治思想史を専門とする学者で、ジャーナリストから転身。
本書は、滝山団地に入居した新住民を背景として、東久留米市立第七小学校に生じた準自治組織の成立から最盛期までの3年間の歴史の再構成を試みたものである。
著者が「滝山コミューン」と呼ぶのは、一担任教諭のイニシアティブのもとで成立した、児童と母親を主体とした準自治組織であり、これは日本共産党民主集中制の影響を強く受けていた。
児童として小4から小6まで七小に在籍した著者は、感染症の研究者を父親に持ち、四谷大塚に通って中学受験をめざすなど、小ブルジョア的な家庭環境のため、滝山団地住民の左傾した政治的傾向の中では浮いた存在であり、「コミューン」の集団主義に強い違和感を感じた。その記憶は長じてなお鮮明であり、著者の学問の原体験ともなった。
巻末の解説は推理作家、桐野夏生による。

スタイルについて

ゆるく時系列に沿ったスタイルで書かれている。
ただし歴史叙述と主観的な評価と古今の政治思想への言及と個人的な追憶がテキスト中に混在し、非常に読みづらい。
このようなスタイルになった理由は自分には2つあると思われる。
まず、特定のイデオロギーや後知恵によって、「意識の低い」テキストを「指導」するという事への批判は本書の根本的な主張である(七小の児童を席巻した、あまりにも子供らしくない代々木風のスローガンも、日の丸君が代も社会による個人の不当な抑圧としてまったく同質であると著者は考える)。
また、一次史料や証言など、実証に耐える証拠の量が単純に不足しており、当事者の意見がどのように導き出されたのかを推論するために十分な情報を文中で示せていない。とくに証言については、証言者の多くが当時の児童であったこともあり、過去に対する否定的評価や、抑圧による健忘([2])などの歪みを強く被っている。
ルソーの『告白』やカール・シュミットの民主主義手続き論など、引用されている政治思想史のテキストは大抵本書のテーマに密接に関連しているが、このように当時の史実を離れた文脈に訴えて「何が起こっていたのか」を示唆する書き方は「事実をして語らしめる」ことが叶わない場合の窮余の一策であり、史学的な研究としては成功しているとは言えない。
ファクトを薄くテキストにちりばめるよりは、遠近感が歪むのは承知の上で、圧縮してアネクドータルな密度を追求するべきだったのではないかと自分は思う。本書の書き方では、「児童の視点」と「教育界」「思想史」の間を埋める「大人の視点」がどうにも欠けているのが気になるのだ。おそらく当時の担任教諭からのインタビューの際、著者の側に「査問」的厳しさが欠けていたのだろう。著者は七小を訪問しているから、在校時の資料等の入手についても可能な限り試みたと考えられる。

総論

本書は屈折したキャリアを歩んだ一ジャーナリスト/現代史家が、自身の幼い初恋と趣味のルーツを語るものであり、その後の時代に流されるまま無反省に学歴エリートのコースを辿ったことへの懺悔でもある。
本書のスタイルはイデオロギー的な明快さを排したものだが、確固たる偏見を持った読者はそれぞれの偏見を裏付ける記述を本書に見いだすだろう。昭和懐旧者、共産趣味者にとっては中途半端な本に見えるだろうが、それはそういった趣味者の為の娯楽作品ではないからだ。
本書は昭和という時代の奇妙さを断罪するものではなく、桐野夏生の解説はそこを自身の創作のテーマに引き寄せすぎている。当時の政治意識の強さはあまりにも党派的で、全体主義的で、恐ろしくも滑稽に見えるが、平成の世における政治的反省の欠落もまた後世からは奇妙に見えるはずなのだ。

References:

[1] 原 武史, 『滝山コミューン一九七四』, 講談社文庫, 2010
[2] http://suzumeschool.seesaa.net/article/50638132.html (「現役おばちゃん教師」による、『コミューン』当時の全生研の実践についての回顧。[1]にあったような当事者たちの自己否定、健忘について触れていることに注意)