現在地どこ?
I feel thin, sort of stretched, like butter scraped over too much bread.
The horror! The horror!
この文章未満の趣旨
- 自分(40台既婚男性)がここ10年近く感じているぼんやりした恐怖感についてとりとめのない妄想を語ります
- あたまおかしいのは自覚してるので相手にしないほうがいいです
自分はどっから来たんだっけ?
- 2011年のあたりからすごく人生が不調なのでなんかそこより前に戻すには情報が足りてない
- 2010年末に数学やりたくなって金谷健一先生の『数値で学ぶ計算と解析』読んだらなんか疑問がいろいろ解けて、そしたらあれが起きた
- 6月に大阪に出張行ってたときに体調を崩した、年末には清水明先生の『熱力学の基礎』勉強してた
- 建て直せてるのかどうか、ともかく2016年5月現在もう金が全然ない
- ともかく2011年より以前にどうやって生きてたのかあんまり思い出せない
- あれ見てまだ自分の人生に現実味があると思える人なんているんだろうか
- ポニョって何だったんだろうとか
- 大井町のアトレで見た2012年春夏のNatural Beauty BasicのCMがいまだにトラウマ
- 長澤まさみの前に積み上げられた椅子が瓦礫にしかみえない https://www.youtube.com/watch?v=hIXQROA5bEI
- CMであえて流さなかった歌詞「おしえてここは何処?私生きているの?/海の底かしら?」がすべてを物語ってる
- もちろん南波志帆の声の寄与が大きいけど、細野晴臣のフーガのエッセンスと松本隆の「死」のスパイスを使ってこの歌を一人称単数のレクイエム(take me to blue heaven)に読み替えた連中の創意おそるべし
- きゃりーぱみゅぱみゅの2013年のハロウィーンソング「もったいないとらんど」に入ってる不協和音が緊急地震速報の伊福部(甥)サウンドに似てるとかそういう
- ハロウィーンは西洋のお盆なので、当然鎮魂の意図があるわけで
- この世に「もっといたい」魂魄が最後に語る成仏の「わずかな期待」が実らないとまで暗示する
- これ系の作品としてなによりまず高澤俊作の「もしも緊急地震速報がオーケストラだったら」を記憶に残すべき
- 「もしも般若心経がオーケストラだったら」も必聴
でもまあまた別の大地震が来たわけで
- 新しい現実は、それがどんなに希薄にみえても以前とは違うから。。
- エメリッヒの映画「2012」そのままに床が裂けた工場とかあるんだけどね、人類に箱舟作る余裕ないっしょ
- 日本沈没と同工なんだけど、この映画で世界をマントルに飲み込ませるための仕掛けとしてニュートリノが増えて地殻が不安定化する、という与太が出てくるけどこれは真実とは逆な気がする、ベータ崩壊でニュートリノが出るんだからニュートリノ密度は希薄な方がたぶん不安定になる、まあだとしたらニュートリノが降り注がないような場所には(物質を成り立たせる真空の斥力が不足して)行くことすらできないから確かめようもない、地殻のマイクロ波による加熱とかそういう他の候補の寄与とのバランスもよくわからないけど
力と現実、社会の解体と個人の狂気
- ある観点からの歴史叙述の妥当性を粉々にするだけの力が暴力にはあるし、人の営みは津波で押し流せる、戦争や天災は価値観の多様化を圧倒するというのは2001年以降何度も自分はみてきた
- 強い重力の下では「物質」(フェルミオン)と「情報」(ボゾン)の区別も崩壊するけど(ブラックホールの表面に貼り付いてエニオンになっているのだろう)、「史実」の「等価質量」ってどのくらいなのか、価値相対性というのは情報の伝達速度が有限なことからくる物理的必然だよな?
- 物質をインプロージョンレンズとかの爆圧で「びっくり」させたら核力をちょっと解放するし、人間社会を地震とかで「びっくり」させたらやっぱり人命の損失に伴って社会のシナジーの一部を吐き出す気がする、吐き出されたシナジーの減少分はどこへ向かうんだろ?巡り巡ってどこかで誰かの妄想、狂気を励起したりしてないか?
Windows 10用Windows PEの環境構築
前提
Windows ADK for Windows 10の入手と導入
- https://msdn.microsoft.com/ja-jp/windows/hardware/dn913721.aspx
- ファイル単体で落としてきてオフラインでやる方法は無い気がする
- PE入れるだけが目的ならDeployment ToolsとWindows PEだけ入れれば作業できる
マニュアル類
- https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/windows/hardware/dn938389(v=vs.85).aspx
- 下記の作業手順は上記マニュアルを読めば誰でも作れる
- のだけれど、2016/5/5現在微妙な間違いが入ってるので文字通りにやってもできない
平均的な日本在住の日本語話者にとっての要求仕様と思われるもの
イメージの構築まで
- [展開およびイメージング ツール環境] を[管理者として実行]
- 管理者モードじゃないとDism /Mount-Imageでひっかかる
set SD=C:\WinPE_amd64 set PP=C:\Program Files (x86)\Windows Kits\10\Assessment and Deployment Kit\Windows Preinstallation Environment\amd64\WinPE_OCs copype amd64 %SD% Dism /Mount-Image /ImageFile:"%SD%\media\sources\boot.wim" /index:1 /MountDir:"%SD%\mount" Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\ja-jp\lp.cab" Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\WinPE-FontSupport-JA-JP.cab" Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\WinPE-RNDIS.cab" Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\en-us\WinPE-RNDIS_en-us.cab" Dism /Add-Package /Image:"%SD%\mount" /PackagePath:"%PP%\ja-jp\WinPE-RNDIS_ja-jp.cab" Dism /Set-AllIntl:ja-JP /Image:"%SD%\mount" Dism /Unmount-Image /MountDir:"%SD%\mount" /commit MakeWinPEMedia /UFD %SD% F:
Dism /Unmount-Imageする前に:
- 背景画像を差し替えたければC:\WinPE_amd64\mount\windows\system32\winpe.jpgをいじる(ただしownerとcapabilityの変更しないと上書きできない)
- 入ってるCab一覧
Dism /Get-Packages /Image:"C:\WinPE_amd64\mount"
- 入ってるデバドラ一覧と追加導入
Dism /Get-Drivers /Image:"C:\WinPE_amd64\mount" Dism /Add-Driver /Image:"C:\WinPE_amd64\mount" /Driver:"C:\SampleDriver\driver.inf"
- なんかうまくいかなくてC:\WinPE_amd64を削除したかったら以下でアンマウントしてから
Dism /Unmount-Image /MountDir:"C:\WinPE_amd64\mount" /discard Dism /Cleanup-Wim
謝辞
この非人間的な苦痛を伴う作業は南波志帆さんの歌声なしには遂行できなかったことを特に記す次第です
歴史修正主義の概念と基本原理
以下では歴史修正主義(historical revisionism)の概念とその基本原理を論じる。概念の解明のためにその歴史的背景についても論じるが、史學の方法論や具體的な史實の認定の是非については議論しない。 *1
21世紀初頭における「歴史修正主義」と言ふ概念は一般的にはホロコースト否定論との關聯で理解されてゐる。 1978年にフランスの文學研究者ロベール・フォリソン(Robert Faurisson)は新聞紙上でナチスによるユダヤ人ホロコーストを否定する主張を行ひ、また翌年資料調査を圖書館等から斷られた事について各國の著名な學識者に反對署名を募り思想信條の自由を訴へた。 署名に応じたひとりに現代の形式的言語學の父で左派政治活動家としても有名なノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)がゐた事から一聯の出來事は大きな論議を呼んだ。 同年にフォリソンらの「歴史見直し」活動の國際的據點として「歴史見直し研究所」(The Institute for Historical Review)が設立され、現在に至るまで活動を續けてゐる。
「ポストモダン」すなわち後近代といふ單語を一般に流布せしめた哲學者ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard)は『文の抗争』(Le Différend)でフォリソンを取り上げ、ホロコースト否定論を論じた。 *2科學史家のトマス・クーンやポール・ファイアアーベントの「共軛不可能性」(incommensurability)の概念と、後期ウィトゲンシュタイン哲學の「言語ゲーム」の概念を借りてリオタールは史實をめぐる論爭は相互に異なる前提に立つ共軛不可能な言語ゲーム同士の「文の抗爭」であり調停不能とし、また科學哲學において實驗事實を扱ふ際の標準的な考へ方である操作主義(operationism)*3を意識して、犠牲者と證據の消滅を「測定機械のすべてを破壞してしまつた地震」と表現した。 簡單に言へば相對主義哲學であり、フォリソンの主張に倫理的に同意せず、その論理的妥當性を是認し、その前提を立ち入り不能のものとして事實上容認するものであつた。これらの主張に際して表面的に借用された(當時の)現代哲學の意匠を取り拂へば、リオタールの哲學はカント哲學の「物自體を直觀しえない」との主張のみに據る觀念論哲學である。
ドイツでは戰後民主主義を擁護する立場から哲學者ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Harbermas)がリオタールの哲學を、相互理解不能であることの理解を求める撞着と批判し(同様の批判はアメリカでもリチャード・ローティーらの説に対してしばしばなされている)、また1986年の新聞論説「過ぎ去ろうとしない過去」(Vergangenheit, die nicht vergehen will)*4においてナチズムをスターリニズムと比較してその清算を主張した歴史家エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)とも論爭を行つた。
一般的な讀書人にとつて史學や歴史解釋は本職の歴史家が考へるよりは概して柔軟なものと捉へられ勝ちだが、 これら一連の相對主義的議論はかういつた柔軟な理解に資する出來事であつた。
reviewといふ英語の原義は「見直し」であり、學問の文脈においては書評や査讀など、文脈に応じて他者の主張の論理的瑕疵や妥當性を檢證する作業全般を示すごく一般的な語である。revisionは通例日本語では「改訂」と譯されるreviewの類語であり、見る行爲の結果としての見え方(vision)を變更する原義を持つ。例へば著書の「改訂」とは著者の見解や實質的な主張内容の(増補を含む)變化を著書に反映する行爲であつて、改版に伴ふ單なる誤植の訂正とは本來區別されなければならない。これにイズムのついた「修正主義」は上述のやうな「見直し論」を史學的營爲に含めない批判的立場から用ゐられるが、 1980年代には多くの學問分野において、論文の論題としての「修正主義的見解」(a revisionist view)がことさらに批判的な意図なく「再訪」(revisited)や「再檢討」(reconsideration)といふ傳統的な論題に變はつて一時的に流行した。「再訪」や「再檢討」と「見直し」「修正」の意味合ひの違ひは前者においては(實際にさうするかは別として)史料の閲覽、調査の爲に遠隔地に赴いて見る行爲や史料を机上に置いて檢討する行爲が一応示唆されてゐるのに對し後者が專ら歴史解釋を視覺的に(視野、觀點の違ひとして)ややものぐさに捉へてゐることであり、これは無視出來ない哲學上の差異をもたらす。「歴史修正主義」をホロコースト否定論とその反批判の枠を超えて思想としてある程度の自律性を持つたものと考へる所以である。
「修正主義」といふ概念は元來共産主義、社會民主主義運動の思想對立において生まれた概念であり、暴力革命ではなく社會改良による勞働者階級の解放を指向する「ベルンシュタイン主義」「社會改良主義」ないし「漸進主義」(gradualism)を批判的立場から示す語と考へてよい。これは共産主義の正統派を自認するロシア共産黨指導部からはマルクスの資本論の教義の「改訂」(revision)を目論むものと位置づけられて否定されてゐたが、戰後自由主義圏の共産黨が多かれ少なかれソビエトロシア政府との聯繋を弱め社會民主黨として選舉による政權獲得へと動く中で事實上これらの政黨の標準的政治理念として採用された。「修正主義」の觀念はソビエトロシア内部、あるいは中露間の政治鬪爭を通して、自由主義圏においても廣く知られ、流布、一般化されていつた。
ソビエトロシアにおける共産主義は修正主義のやうな「ブルジョア的虚僞意識」を排しそれとは正反對の唯物論的な科學主義に基づいてゐると主張されてゐた。 自由主義圈は繁榮と反共(反全體主義)をこれに對置したが、1970年代末にはブレジネフ體制の下でロシアの經濟的退潮は明らかになつてきた。自由主義圈における全體主義への抑壓(全體主義に對しては思想の自由を制限すること)はこの時代背景の中でしだいに弱まり、フランスやドイツで自國の過去の歴史を相對化する機運が生じたのである。フォリソンやノルテは自説を思想の自由、反集團主義、少數意見の尊重などの論點で補強し(後に日本でも藤岡信勝は「自由主義史觀」を唱へた)これに反對する議論もリオタールにせよハーバーマスにせよ極めて相對主義的、觀念的な自由主義の擁護であり、反全體主義を事實上無化する性質を帶びてゐた。この意味において1978年はまさしく現代歴史修正主義の起源の年であり、自由主義は反論不能のドグマと化したのであつた。
ここで一旦、日本語固有の問題に觸れておかなければならない。現代日本語において「正」「整」「制」の文字は同音であり不用意に混用され、あるいは法律の分野におけるやうに濫用されてゐる(ただし部首から明らかなやうに「整」は「正」の派生語であり現代標準中國語(北京語)でもアクセントの違ひのみで區別される)。たとへば「修正」には曖昧なニュアンスがあり、これは「改正」同樣に、必ずしも「正しい方向への變更」とは捉へられてゐない。日本語の「正」が事實上"view, vision"の譯字として用ゐられてゐるからだが、日本語による思考が一般には強い相對主義的傾向を有することの一つの表れでもある。
あらゆる史實は過去に屬し、現代に生きる我々が得るものは史料であれその評價であれ過去との相關において存在する事象であつて、過去そのものではない。これらの事象すべては現代の解釋者の尺度において評價され理解される。これは事實の社會的構成という皮相の話ではなく、自然法則の必然から成り立つてゐる話である。
唐突かつ奇異の感を免れないが、遠近法によつてこの状況を説明したい。畫家の視點は繪畫の外側にあり、從つて繪畫は常に主觀的視點からの映像であるし、畫家の視野の中にあつてさへ、遠いものは無限遠の地平線へと集約されてしまふ。實際にはあらゆる物理的測定がこの嚴密な意味においては主觀的であることを免れない。*5例へば放射線を幾分か吸收する物體に含まれる特定の放射性物質の量をその放射の測定値で嚴密に定量することは内部吸收の問題から不可能であり、その效果を勘案して測定値を補正することは臆測に屬する。歴史敍述も歴史家そのものの利害關心の客觀的敍述を含み得ないし(主觀的な補正は常に幾分か可能である)、歴史家の着眼點から外れ、あるいは隱れてゐる事象は當然省かれる。
この視野の限定はあらゆる主觀が恣意的であるからではなく、單に限定された時間と空間に屬することによるのである。放射性物質の例であれば、檢體をバラバラにして巨大な測定裝置で檢査すれば精度は上がるだらうし(裝置の巨大化に伴つて別の誤差が生じるかもしれない)、原理上はおそらく放出する熱を長時間かけて測定し、汚染されてゐない同種の物質と比較することによつて内部吸收線量の見積もりの精度を上げることもできる。また、歴史上の決定が密室で行はれたとして、その當事者の證言や傳聞證言が後日現れれば場合によつてはその決定についての定説が覆る。これらの新事實の出現は主觀の恣意性とは何ら關係がない。
現實に對する嚴密に客觀的な視點とは、このやうに後から判明するものも含めた全ての歸結についての評價であり、これはもはや宇宙の生成から消滅に至る全事象を知ることと同義である。
ここから更に次のやうなことが判る。つまり、過去の事象の影響は遠く未來を變え得るし、未來における行動は過去の評價を大きく變化させる。實例を舉げよう:1912年にオーストリア=ハンガリー帝國領のBerehove*6から移住して米國ニューヨークのブルックリンで小間物屋を營んでゐたハンガリー系ユダヤ人の夫婦に子供が生まれた。東欧地域で稀でないポグロム(ユダヤ人狩り)を逃れてのことであらう、「樂園追放」を暗示する「ミルトン」*7という名を附けられたその子供は長じてのち經濟學者となり、戰後レーガン政權時代の軍擴路線を代表する反共思想家として名をなした。*8彼の孫の一人は祖父と同じく「フリードマン」の姓を名乘り、Google社の技術者であつたが、退職し無人島を贖入して獨立國の建國を目指すことが近年報じられた。彼の名は「パトリ」すなはち「父なる郷土」を意味する。*9この名を一族の歴史と無關係と考へることは難しいし、名とその企圖との間にも偶然とは言へない關係がある。すなはちこの企圖はおそらく一世紀前のポグロムの一歸結である。
未來における行動の中で直接的に過去を變へる方法として、怨念のやうに意志を個人的關係の中で傳へてゆくことが可能であり、かうした「怨念」は實際に各國のナショナリズムの底を支へてゐる。過去の出來事によつて犠牲となつた人間の遺志の繼承や名譽恢復を何らかの理由で望む者が存在し、政治的影響力を行使し續ける限り、それが「史実」であれ「捏造」であれ過去は現在に、そして未来に影響を及ぼし續け、過ぎ去らうとはしないのである。
ただしかうした影響は總じて年月の經過と共に減少していく。そして國家もまたこれらの影響を小さくし、統治の正統性を安定させるために教育といふ手段を有してゐるのであり、歴史教科書における史觀の見直しが政治的鬪爭の目標となる理由もそこにある。*10
(初出:2013/4 正かなづかひ 理論と實踐 第4號)
*1:[補注] 筆者が本稿を執筆した契機の一端として、西岡昌紀による一松信『代数系入門』のAmazonレビューを目にして、所謂史実否定主義(denialism)の精神的背景について再考を迫られたことを記しておきたい。問題のレビューはこちら:http://web.archive.org/web/20150729162931/www.amazon.co.jp/review/R3OQOUOX3VLA43
*2:[補注] 文の抗争 (叢書・ウニベルシタス)
*3:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Operationalization
*4:[補注] http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~bessho/Vorlesungen/VorMaterial/Nolte1985Vergangenheit.pdf
*5:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Measurement_in_quantum_mechanics
*6:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Berehove
*7:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Paradise_Lost
*8:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Milton_Friedman
*9:[補注] https://en.wikipedia.org/wiki/Patri_Friedman
*10:[補注] いうまでもないことだが、2015年現在の日本においては「歴史戦」という概念を掲げ、諸外国における歴史認識の書き換えを政治目標とする勢力が存在する
仕様と実装の混同についてのメモ
人間はかくも不完全であるが恩寵によって全体を帰納=幻視する。
しかしそれは移植可能な方法でレジスタサイズを(つまり機械にとって自然な整数の最大値や浮動小数点数のマシンイプシロン≒「質量ギャップ」乃至「グルーボール」を)知ることが出来ないのと何が違うだろうか。
我々が同じとみなすコードが具体的なマシンアーキテクチャ上でどのような機械語に落ちるかを制御できないなら、移植可能ではないことになる。実際のところ、コンパイラのブートストラップの一番最初のところでは人間が手で書いたマシン定義を信頼するしかないし、たとえば64bitマシンで32bitのアーキテクチャ定義をしても問題が起きないようにはできるだろうけど、32bitマシンを64bitマシンと錯覚させてブースストラップさせようとしてもどこかでひっかかるのではないか(もちろん仮想記憶とか浮動小数点演算エミュレートの要領で64bitアドレッシング/演算命令をOSでトラップして処理するような場合、それはアプリケーションから見えているマシンアーキテクチャとしては64bitである)。対象言語とメタ言語の関係はCと機械語の関係であって、もちろんLISPのようにその両方が同じ言語であっても全然構わないけど、メタ言語の方が記述の抽象度が落ちる、例えば自然数を空集合からつくったり宇宙(プロパークラス)を冪集合でエミュレートするのと、オブジェクトの宣言、生成破棄や参照の解決の裏側(所謂メタオブジェクトプロトコル)をメタ言語で記述するのは同じこと。
レジスタサイズが有限なら、それにおさまりきらない整数についての主張は自然な実装(多倍長整数のようなものではなく、1命令で演算できるような)を持たないわけで、これがNelsonの数学的帰納法の正当性についての懸念の背景にあると考えると別に奇妙なことを主張しているわけではないかも(つまりインダクションステップに対応するプログラムはバグらない自然な実装を持たない)。もちろん最初でちょっと触れたように、おそらく彼の中では構成的場の理論の問題とも関係がないわけでもない。ただ哲学的には混乱していると思う、つまり仕様と実装の混同がある。有限長で仕様(定義)が書けるとしてもその完全な実装(実現、具体化)が有限長で収まるとは限らない。KdV方程式とその解たるソリトンの無限自由度たちとか、Pour-Elの意味で「計算可能」な超越数の定義とその冪級数展開や10進展開とか、正規表現とそれにマッチする文字列たちとか。
怒られたら消します1
プリンストン高等研究所 数学部門
ファインホール、プリンストン、ニュージャージー
1936年10月3日
親愛なるウラム*1
お手紙を頂きありがとうございます、マリエットも私も近々プリンストンで貴方と再び会えることを喜んでいます。10月10日、あるいはそのへんのどこか、ご都合の合う日に(我々としてはそのあたりが都合が良いのですが)我々のところに滞在されること、それもできるだけ長く滞在されることを、期待、する次第です。
測度論を現代的に書き直そうという貴方の計画に全面的に同意します。カラテオドリによる測度論の説明*2はおそらく現存するものの中では相対的に一番ましでしょうが、救いがたく時代遅れです。徹底して現代的な、大いに組み合わせ的であってできるだけ位相的でなく、有限および無限直積を多用し、そして(なによりもまず)測度をできるだけ体積としてではなく確率として解釈するような測度論の説明は、実際素晴らしいものになるはずです。少なくとも私はいまある文献にはこういう観点がひどく欠けているとよく思うのです。貴方の本の体裁や長さはどうなるでしょう?草稿の一部でも拝見できると嬉しいです。1933/34年と1934/35年に私がここで「線形作用素」の講義をした際には、なにがしか上記のような精神で測度を扱おうと努めましたが、測度が自分の主な関心事でなかったという事によって十分には果たせませんでした。
私は貴方の一般積作用(general product-operation)についての草稿も大変楽しみにしています。
こちらへおいでになった際に貴方が指摘したものやほかの幾つかの数学的問題について議論することを期待しています。その時までには貴方の仰っていた私の2年ものの草稿も掘り起こしておきましょう、現在開梱中ですが、発掘の進捗はすごく順調というわけではないので。
近日中に再びお会いできることを、マリエット共々心より願っております。
衷心より
*1:[訳注] 彼がスタン、とファーストネームで呼びはじめるのはこの後の時期
*2:[訳注] Algebraic Theory of Measure and Integration (AMS Chelsea Publishing)
*3:[訳注] John Von Neumann's: Selected Letters (History of Mathematics), p.249
数理経済学とトポロジー
調べたことと、一知半解の見解を雑然と書いてあるだけので内容を決して信用してはいけません
(uncorrelatedさんの一連のツイートがかなり刺激になったことを申し添えます)
誤りの指摘を歓迎します
追記:大域的不安定性の解釈について不均衡と同一視していた記述を修正しました。参考: http://www.anlyznews.com/2013/10/blog-post_28.html (アンコリさんには頭があがらない)
必読(自分は解読中)→いちごびびえす経済板「丸山徹 数理経済学の方法」スレ(web.archive.org)普通のブラウザで見てるとなぜかリダイレクトされちゃうのでロードしたら止めること
まず最初に
- 経済学、というものを普通に経済統計や経済行動の解釈とモデル作りとモデルに基づく政策提言、評価の活動と捉えるなら、トポロジーに関わる話題は1930年代にvon Neumannが位相空間を経済学に持ち込んでから、経済学者たちが1950年代にはミクロ経済学、1970年代にはマクロ経済学におけるその含意を完全に咀嚼し、経済学的な意味付けを行うまでの間にモデル作りにおける極めてテクニカルな話題として現れていたものであって、本来ならそんな話に普通の人が興味を持つようなものではない
- 数学素人である経済学者集団の単なる衒学という評価ももちろん世の中にはあるけれども(たとえば角谷がMas-Collelにそういう趣旨のことを言っている)、しかし数理経済学というゲームのルールを変えたのは、あえて一人に代表させるならばvon Neumannであって(そのバイプレーヤーとして、小Mengerがオーストリア経済学から数理経済学が派生する場を準備した、といってもあながち過言ではないし、Morgensternの攻撃的なアジテーションの影響も大きかった)、経済学者たち自身ではなかった、そして彼らが経済学特有の数学の使い方に慣れるのに時間がかかったのも事実
- 経済学の特殊性は、「パイが固定」(成長の余地がない)といったモデルの前提が、そのまま政策提言の暗黙の前提になりがちなことと、指導的経済学者が政策的含意を持つ前提を議論するのにそれらの数学的性質への考慮が影響すること
- 以下の説明も政策的含意から自由でないかもしれず、幾何の浮世離れした議論と非常に食い合わせが悪いが、何が起こっていたか、を理解するには生臭い政策的含意の言語と抽象的な多様体の形についての言語の両面から「経済モデル」というものがどう見えるかを説明せざるを得ない
- 数学史的文脈ではvon Neumann、Ramsey、Nash、Smaleといった面々が数理経済学に貢献しているが、表面的にはたんなる数学の応用に見えてもこれを単なる余技とみるべきではおそらくなく、数理経済学という観点からごく一般的な(非物理的な)セッティングにおける数学を捉えることに一定の必然性がある(Mandelbrotに始まる経済物理学のモチベーションも、単に株式市場の予測で儲けたい、というようなことだけではなく、物理学、たとえば臨界現象の挙動についてのよりよい理解に資する、という動機は必ずある)
- 素粒子論(HEP)とは違う形でだが、経済学もまた「時間とは何か」という問いとそこから生まれるいろいろな問いをずっと抱えているのであって、それが「具体的な座標によらずに表現された永年摂動の問題」という形で現れているのだともいえる
- 個々の恒星系や銀河が宇宙の他の部分に及ぼす重力の影響が0にならないように、真に孤立した経済というものも無いのであって、たとえ最初はアウタルキーであってもいずれは貿易が始まる、といったことを理解するのに実のところ経済学を理解する必要はほとんどない、そういうコーナーケースの議論が本稿で取り上げる話の重要な一部
諸注意
- 経済学における静学と動学(他分野では「静力学」「動力学」だが経済的な影響を「力」と捉えることの妥当性が自明でないため経済学の文脈ではこう訳す)、ミクロとマクロの区別は計量経済学(時系列データのインパルス-レスポンス解析、散乱行列によるマクロ経済のモデル化)の創始者であるFrischの導入したもの
- 経済モデルの状態変数が時間の関数になっているものが動学、そうでないものが静学なので、ミクロとマクロの区別とは本来独立なもの(たとえば産業連関表はミクロ動学、比較静学はマクロ静学)
- ただ、集計量と個別の経済主体の状態のずれが時間を通じて効いて来るため、経済動学は主に(集計量を扱う)マクロ経済学への理論的含意が大きい
- そしてこの時間を通じて効いて来る効果(非ホロノミーとか不可積分性とか呼ばれるもの)こそがトポロジーとの関わりで問題になる
大まかな状況
- ゲームは変分原理の離散表現
- Morseのglobal analysis:多様体(滑らかなベクトル値多変数連続関数)から非負実数値への射影(次元縮約)である高度関数(altitude function)を考える、つまりベクトル場からスカラー場を作る議論
- 熱力学の成立以前にOresmeやHegelが考えていたextensive(外延、示量変数)とintensive(内包、示強変数)の関係の一つの数学的理解とみることもできる
- たとえば個々人の経済厚生を集計して代表的個人の効用関数を作るといった話に関係してくる
- 高度関数がその上で定義される空間に多様体をどのような向きで埋め込むかによって高度関数は一意ではない(富の絶対的な評価尺度はない)
- スカラー場(富の分布)に具体的な座標系(富を保有する地域や経済主体の相対的な「位置関係」)が入れば富の地理的分布の議論の土台にもなる(Krugmanが「不平等の統一場理論」(unified field theory of inequality)とか言っている*1代物を具体的に考えるならこういうことになるはず)
- Weinstein-Malaney-Smolin([Smolin 2009])の集計的効用関数をゲージ理論で考えるというアイディア*2は(Donaldson以降であれば)上記の説明から自然に出てくる話
- ただし、Weyl-Einstein論争*3から示唆されるのはKrugmanの言うような枠組みを一意に定める(パラメータなしの富の理論をつくる)ことはおそらく不可能なこと
- 目的としては:静学的な一般均衡だけでは説明のできない経済格差の必然性を理解すること
経済学の文脈に現れてくる位相の非一意性
- 社会選択理論は半順序集合(poset)つまり位相空間の最適化の議論
- 順序理論的な非一意性(グラフの不安定性)としての、Gibbard-SatterthwaiteとかArrow impossibility
- IIAを要請しない場合の議論はある(IIAが不成立だと任意の評決の効用を個々の議案の効用から導けなくなる→本質的に測度が無効)
- 無限グラフを許容したり量子投票を使って上述の不安定性を回避するという議論もあるが計算可能性の保証を外したり選好に不確定性が生じるなど本質的な解決ではない*7
- Bertrandの(確率論の方の)逆理にも関連してくる?
- Sonnenschein-Mantel-Debreu定理*8が大域的不安定性(静学的な均衡の非一意性)(経済格差は時間の中で均していくことしかできない)
- マクロ経済モデルでの複数均衡
数理経済学における均衡安定性の検討の経緯
- 1901:Walras on cardinal utility (Walras-Poincare correspondance)
- 1928:Ramseyの貯蓄の理論
- おそらく史上初のDSGEモデル、Keynesが成立過程に関与
- 変分原理を天下り的に適用しており(従ってblissつまり定常状態の存在と一意性は仮定されている)確率過程(1928当時、公知の定式化なし)は明示的には現れていない
- 1932:von Neumannの均衡存在証明(論文は1937、英訳が1945)
- 1930s:Hicks『価値と資本』数学付録における行列式論の言葉で書かれた安定性
- 1940s:Samuelson『経済分析の基礎』における偏微分/差分方程式論の言葉で書かれた安定性
- von Neumannがオフレコで激しくdisったやつ
- 1950s:Uzawaのアトラクター(詳細はケンブリッジから出てる方の論文集Preference, Production and Capitalを参照)
- まず均衡とアトラクターの関係について:Walrasの模索過程(tatonnement)を実際に考えると、それは価格と数量が均衡点に向かって渦を巻く、といったものになる
- 決定論的な「求根」というのはこの過程が代数計算で縮約でき、不動点が一意に定まる特殊な場合のこと
- 豚肉価格で実際にこの振動がみられ、この事実はKaldorのcobweb modelに結実する
- 宇沢は数学出身なので集計の問題が幾何(大域解析)の問題だとすぐ理解したはず
- アトラクターに完全に縮退したものがBrouwerのfixed pointになる、というのがUzawa同値性(1962)
- 現実の経済はおそらく「消費者」という無数の渦の相互作用を平均したものにおいてのみ「価格」ということが言えるのである(情報伝達にタイムラグがあれば一物一価の原理は厳密には成り立たないし、現実の世界は多かれ少なかれタイムラグを持つ)
- 1960s:Pontryagin、Thomの仕事(構造安定性、横断性)に基づいた整理
- 1970s:Debreu-Burmeisterの正則経済(regular economy)
- 鞍点が高次元から低次元への二つの射影が同相である条件と関わっている、ということが広く認識され、ゲーム一般に(経済一般に)鞍点の存在が保証されないことから複数均衡は排除できないとして、ではいかなるポテンシャルの変化もなしに複数均衡が存在することはありうるだろうか?という問題意識が生じた
- ここでの「正則性」は位相的曖昧さを持たないという意味(局所的に無差別な均衡点が無い)、Debreuはこの意味でnon-regularなeconomyが零集合であることを示した、らしい
- 2009:均衡多様体(equilibrium manifold)
- 上記の歴史的経緯から必然的に現れる概念
- Balaskoの仕事、Cass-Shellラインから出てきている研究
動学のパラダイムにまつわる経済学史上の作業仮説
- von NeumannやRamseyの方法は1950年代の経済学にとっては特異性が高すぎた
- Samuelsonの量子論とのアナロジー(『基礎』における「対応原理」)も理解されていたとはいいがたい
- 経済動学の宇沢学派(Cass/Shell/Lucas/Stiglitzら)はかれらの考えを繰り返し書き直すことで理解へと接近したのだが、その努力を救ったのはPontryaginの『最適過程の数学的理論』(米国で1962、日本で1967に訳出)
- MITにおけるShellのセミナーが最終的にSamuelsonの線でまとまる*11までには紆余曲折があった模様
- 1968年の宇沢の離米後、Lucasが1970年に貨幣の中立性で宇沢学派から決定的に離反し(そもそも彼は1964年に学位をとっており、シカゴにおいてはあくまで宇沢の若い同僚であって、弟子というわけではない)new classicalsを打ち立てる際に、RamseyについてのEuler equation of consumptionという1960年代末時点の宇沢学派における理解*12を持ち出した
- 当然論敵であるSolow-Samuelson Hamiltonianのコンセプト(1970年代にMITではコンセンサスとなる)はシカゴでは軽視されることになる(1990年代の淡水学派のStokey-LucasやLijnqvist-SargentはLucasの宇沢学派離脱時点の痕跡を残すことに)
- 結局のところ恒常所得仮説(PIH、Friedman)とかライフサイクル仮説(LCH、Modigliani)はデフレ的な仮定であり無制限に認めれば貨幣の中立性を導かないほうがおかしい、Cass/Shellは現実的なモデルとして局所的にしか横断性を満たさない重複世代モデル(OLG)の構築に向かうことに(歴史的順序は逆か?)
加法性、測度に関する注意
- 測度の定義で大事なのは実は完全加法性が成り立つことではなくて、気分としては非可算加法性が定義されてほしくない(どうやっても矛盾するから)
- 経済的リアリティの言葉で言えば、技術や嗜好のシーズである「零集合」のうち未来の「正測度」になるツリーのルートがどれになるかは分からない、ということ
- 測度が矛盾しないこと、が、未来が見えないこと、と(気分的には)「同値」であり、つまりDSGEは別に未来が全部見えていることを主張してないし、富の総量が将来にわたって同じままであるとも主張してない(予測不能なショックとして未来は現れる)
- いっぽうで宇沢学派のOLGやKahneman-Tverskyのプロスペクト理論のように局所的な決定論は維持しつつ最適化の地平や効用(富)の加法性を(赤外切断するというよりはむしろ緩やかに)ロールオフさせる(測度の要件である加法性を長期では捨てる)、という方向の議論もある。特にKahneman-Tverskyの仕事は前提に心理学における測定と加法性についての研究成果がある。いわば消費サイドの「寡占理論」だが、一般均衡との相性は決してよくない
- おそらく閉じたモデルにならない(これがHayekやLucasが貨幣の中立性を主張する理由)
整理の必要なこと
- 結局、主流派的には動学と静学の相克はどう解消されていると考えるべきなのか?
- 均衡が時不変である、という前提は主流派にはないから、素朴に考えた静学的な一意な均衡は捨てられている
- NashやSmaleの経済学への貢献をどう位置付けるか?
- NasarはなぜNashのあとPerelmanについて書いたのか?
- Wittenが一時期経済学をやっていたことは彼のMorse理論への貢献とどういう内在的関係があるのか?
References
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- [Krugman 2014] Why We’re in a New Gilded Age, www.nybooks.com/articles/2014/05/08/thomas-piketty-new-gilded-age/
*1:http://www.nybooks.com/articles/archives/2014/may/08/thomas-piketty-new-gilded-age/
*3:http://relativity.livingreviews.org/open?pubNo=lrr-2004-2&page=articlesu9.html
*4:https://en.wikipedia.org/wiki/Pareto_principle
*5:等価な債券のポートフォリオに読み替えて考える、期間構造が経済的「量子状態」に相当
*6:インフレ率=経済的「曲率」が違う
*7:たとえば http://arxiv.org/abs/1501.00458 とか、Mihara-Kumabeもか?
*8:https://en.wikipedia.org/wiki/Sonnenschein%E2%80%93Mantel%E2%80%93Debreu_theorem
*9:一般均衡理論に固有のこの「大域性」は数学的には問題がないが、そもそも一般均衡理論の反証可能性に重大な懸念を投じる
*10:http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_T000218
石坂啓『エルフ』覚え書き
20年以上前に読んだ漫画の断片が気になって仕方がないので
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作品の概要と背景
手塚プロダクションのアシスタント/アニメーター出身の漫画家、石坂啓(1956-)*1の初期作品で、1981年から1982年にかけて発表された。
エリート一家の高慢な娘である魔性のヒロインとそれに翻弄される周囲の人物をハードボイルド調で描いた悲劇。
世に知られた著者の左翼思想は本作では狂言回しのフリージャーナリストに体現されている。
間テクスト性
支配階級の頽廃と傲慢、暴力性を描いたものとしては雁屋哲/由起賢二の『野望の王国』(1977-1982)と同時期の作品であり、病室に届けられた果物篭に爆薬が仕掛けられているギミックは直接この作品からインスピレーションを受けている可能性がある。
極左からの転向と海外留学や、近親相姦、早熟な少女の自意識といった基本的モチーフに倉橋由美子『聖少女』(1956)からの影響が伺われる。
現実の事象との対応
極左団体を立ち上げた後解散して別名で保守言論グループ「グループー九四〇」の中心人物となる人物は、ブント(日本共産主義者同盟)の創立者の一人で後に転向し、「グループー九八四年」名義での寄稿でも知られる香山健一(1933-1997)をモデルとしていると思われる。
ヒロインの兄は支配階級の血脈に属しその別働隊として行動し、極左を偽装したダミーの運動体を運営したり、爆弾テロを行うが、これはイタリアのボローニャ駅爆破事件(1980)に関与したロッジP2や、三菱重工の御曹司でピース缶爆弾事件(1969-1971)に関与した無政府主義者の牧田吉明(1947-2010)がモデル。また、一連の事件後に留学名目で海外逃避を計画するのは香山と同じくブント指導部から転向し、フルブライト奨学金を得て渡米した青木昌彦(1938-2015)がモデルであろう(青木については『聖少女』のモデルであったともされるためその影響もあるだろう)。
学校の土地売買をめぐる醜聞は、おそらく帝京大学と、読売新聞の大手町国有地払い下げ問題(1966)がモデル。
追記:時代背景についての私見
1980年代初頭の日本の左翼運動界隈の趨勢というものを考える上でこの作品は若干の示唆をあたえるものと思う。作者本人の政治的志向は顕著だが、本作にはおそらく掲載誌の版元、朝日ソノラマの編集者の影響もあるだろう、当時の朝日新聞系列のメディアは基本的に体制内における左派の代弁者であった。
作中の運動体は極左の組織のようでいて実際にはブルジョアの隠れ反動派に牛耳られる体制の別働隊であって、1970年代の反スターリニズムの左翼運動の過激化が結局は民心の離反を招き体制の強化につながったという一種の「砕氷船理論」のような見立てと反省がここにはある。作者はことさらに反スターリニズム(日本共産党への反発)を打ち出さない護憲、市民派の左翼(近年「プロ市民」といわれる層)のはしりであるが、その立場はこういった反省から自覚的に選ばれたものであったと考えるべきだろう。